――この問題を考える第一級の研究書――永岑三千輝 / 横浜市立大学名誉教授・ドイツ現代史週刊読書人2021年11月12日号「命のヴィザ」言説の虚構 リトアニアのユダヤ難民に何があったのか?著 者:菅野賢治出版社:共和国ISBN13:978-4-907986-81-0 カウナス領事代理(着任1939年8月)の杉原がナチス・ドイツのポーランド侵攻によって発生したユダヤ人難民(総数一万数千人の一部)に日本通過ヴィザ、いわゆる「命のヴィザ」を発給したことは周知のことである。しかし、発給時期(40年7月から8月末)、発給数などに関して巷間流布する言説には幾多の誤りがある。当事者の回想や新聞記事のみに依拠した言説には、事実誤認や「憶測」、「主観的願望」、後知恵・事後的知識による歪曲などが入り混じっている。歴史認識において一次資料の発掘、その解読・評価を踏まえた歴史科学的研究が必要不可欠な所以である。 本書はまさに「命のヴィザ」に関する一次資料を発掘し、それに基づいて諸事実の前後関係を精密に洗い直し、批判的に解明している。依拠する主要な一次資料は、科研費等の公的研究資金をえて調査収集したもので、国際的ユダヤ人支援組織「アメリカ・ユダヤ合同分配委員会JDC」の文書群である。圧巻は、杉原千畝・幸子証言と一次資料の明白な乖離を八つの問題について立証しているところである。誠実な資料調査と歴史像構築の仕方は科学的であり、模範的だというべきであろう。 著者は、40年夏に「ガス室」恐怖を語る杉原などの事実誤認を批判し、彼の行為が「ナチスのホロコーストからユダヤ難民を救うため」であったという言説を覆す。著者によれば、40年8月末までの任期中、リトアニアのユダヤ人難民を脅かしたのは「忍び寄るナチスの魔手」などではなかった。40年夏、「一部のユダヤ住民とユダヤ難民たち」にリトアニア残留への大きな不安を抱かせたのは、「ソヴィエトの全体主義」であったと。 しかし、このテーゼはカウナス領事館に押し寄せたユダヤ人難民が訴える被害と恐怖を軽視している。電撃戦で今やヨーロッパ大陸全域を占領支配下に置いたナチスの圧倒的膨張圧力のもとで「ユダヤ人狩りを避けることのできる国はもはや、ヨーロッパには無い。したがって兎にも角にもソ連、日本を経て第三国に移住するのである」というユダヤ人難民の痛切な訴えを軽く見ることはできない。他方、「厄介者」となった多数の難民の問題を可及的速やかに解決したい当局がソ連通過ヴィザを進んで与えようとした当時の方針をも無視している。リトアニア併合・社会主義化の進展で明確になるのはソ連当局の階級的政策だ。それが資本家、正統派ユダヤ教徒、ブンド派、シオニストのリトアニア脱出願望に火を付けたという事実群を無限定の「全体主義への恐怖」で一括していいのか問題である。 確かにユダヤ人大量殺戮という意味でのホロコーストは、近刊予定の拙著『アウシュヴィッツへの道』(春風社)で検証したように41年6月、独ソ戦の火蓋が切られて以降のことである。だが、ホロコーストとは何か。「ナチスの脅威」とか「ナチスの魔手」は、ホロコーストと同じではない。40年夏、バルト三国の人々、ユダヤ人難民に、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害・追放政策の情報が入らなかったという証拠はない。「脅威」や「魔手」、それへの恐怖をわざわざ援助金を求めるJDC文書に書く必要はない。この組織にとってはいかにして可能な限りの資金を調達し、いかにしてアメリカの世論の反発などにも配慮しつつ国務省など関係機関の協力を得るか、その上で確保した援助資金を南北アメリカやパレスチナへの旅費・滞在費として有効に配分し、救済の実を上げるかといったことが問題である。JDC文書の史料的価値を歴史全体の文脈の中に適切に位置づけることが求められる。その意味で一次資料絶対主義に傾きがちな箇所には問題を感じる。 だが本書の意義は副題そのものが明確に示している。「リトアニアのユダヤ人難民に何があったのか」を一次資料の語る豊富な立体的事実群によって、実証的に解明しているからである。本書が今後この問題を考える第一級の研究書となることは確実だ。(ながみね・みちてる=横浜市立大学名誉教授・ドイツ現代史)★かんの・けんじ=東京理科大学教授・フランス語・ユダヤ研究。パリ第一〇(ナンテール)大学博士課程修了。一九六二年生。