圧倒的な熱量と質量で謎を網羅し明確な星座を描き出す 伊藤氏貴 / 文芸評論家・明治大学文学部教授・文芸メディア週刊読書人2022年3月4日号 村上春樹クロニクル BOOK1 2011―2016著 者:小山鉄郎出版社:春陽堂書店ISBN13:978-4-394-19024-0 昨年十月に、「早稲田大学国際文学館」が開館した。別名を「村上春樹ライブラリー」というが、個人名を冠した文学館は今後そうそう作られることはないだろう。しかも作者が存命のうちに。ノーベル文学賞の発表の時期に、「ハルキ・ムラカミ」の声を待ちわびる人々の姿もすっかり毎年の風物詩になった。村上春樹が日本で最も著名な作家であることは疑いない。 そしてその人気の最大の源泉が、作品にちりばめられた数々の「謎」であることも言をまたないだろう。不思議な名前、双子、身体の欠損など、意味ありげなモチーフが作品を越えて何度も現れる。これまでもさまざまな論者がさまざまな解釈を繰り広げてきた。納得できるものもあれば、牽強付会に思えるものもあるが、それ以前の文学研究と大きく異なるのは、作家論へと踏み込む者はあまりいなかったということだ。 それは、批評理論が百花繚乱になり、研究の方法が作家論からテクスト論へと大きく傾いた時代と、ハルキの登場とが重なったからだ。かつて、作品内の謎解きは、作者本人の思想へと還元され、日記や書簡などがその傍証として重大な、ときには作品以上の価値を持った。しかしいつしか読みの焦点は作者よりも読者に移動し、極端に言えば各人がおもしろく読める読み方をすればよい、ということになった。 そしてハルキはそういう読み方に合っていたところがある。もちろん「ハルキ」という書く主体が背後にいることは承知で、そのファンになるのだとしても、ハルキの思想や日常に迫ろうとする研究は、たとえば昭和の作家たちに比しても断然少ない。作品内の「謎」がそういう視線を阻んでいるところもある。 謎解きが謎解きで終わってしまい、その先へと進んでいかないきらいがあったのだが、本書は、圧倒的な熱量と質量とで謎を網羅し、村上春樹の全体像を浮かび上がらせようとする。 これがBOOK1で2011―2016となっている意味がはじめわからなかったが、「クロニクル」と言っても、作品を年代順に見ていくのではなく、あくまで著者が発表した評の順序に従ってということだった。二段組で四〇〇ページを超える分量を五年で書くという入れ込みぶり。作者へのインタビューの経験も踏まえての読み解きは、たんなる一つの謎の解明でなく、「村上春樹」そのものを解こうとしている。 たとえば一つの謎というなら、『レーダホーゼン』という短編で、なぜ妻が突然夫に愛想尽かしをするのかという作中だけでは解けない謎を、デビュー作の『風の歌を聴け』の中に出てくる「存在理由」と結び付けて解くことは私にもできる。通底するのは、所詮、人間の個性など数値で換算できる互換可能なものにすぎない、という思想だ。だが、これが村上春樹という作者の思想そのものかというところまでは、たかだか二つの作品からではわからない。 しかし本書は、作品を越えて現れる表現やモチーフをひたすら集積し、列挙することで、読みにさらなる説得力と広がりとを与えている。著者自身は、その集積がうまく一列に並んだときの様子を「惑星直列」と呼んでいるが、私には、無秩序に並ぶ星々との間に意味ある線を引き、「ハルキ座」という一つの明確な星座を描いて見せられたように思えた。 十年に及ぶ連載の、これがまだ前半だという。BOOK2が今から待たれる。(いとう・うじたか=文芸評論家・明治大学文学部教授・文芸メディア)★こやま・てつろう=共同通信社編集委員・論説委員。著書に『村上春樹を読みつくす』『村上春樹の動物誌』など。二〇一三年度日本記者クラブ賞。一九四九年生。