――三部作完結、著者の思考と世界の神話学の歩みを照らす――前田耕作 / 東京藝術大学客員教授・ユーラシア思想史週刊読書人2021年7月9日号神話思考Ⅲ 世界の構造著 者:松村一男出版社:言叢社ISBN13:978-4-86209-084-3 時代が揺れ動くとき、暗夜の灯のように神話が思い出され、新たな神話が紡ぎだされる。どの民族にも、どの国にもそれぞれに神話があるのは、神話が単なる伝承ではなく人間の存在の根源にかかわる記憶でもあるからであろう。「神話なき民は死んだに等しい」といったジョルジュ・デュメジルの言葉の重さが思い返される。 著者が「神話の研究を志したのは、一九七四年にフランスの神話学者デュメジルの印欧語族三区分的イデオロギーの理論を知ったことが契機であり」、ついで「ミルティア・エリアーデの『宗教学概論』を読み、その宗教や神話についての考え方を知り」、宗教学への関心を深めていったという。七〇年代は一九六八年五月にパリで起きた知的変革を求めた運動の波動が世界を席巻した時代であり、既存の学問がことごとくその存立の根拠を問い直された時代であった。 一九七七年、「教授資格者を持たない」ひとりの人物が一六世紀に創設された由緒深いコレージュ・ド・フランスの教壇に迎え入れられ、その開講講義には特権的な人びとのほかに、無名の人びとが廊下に溢れでたという。かくも人びとを引き付けたこの経歴不確かな人物とはロラン・バルトのことである。翌一九七八年、デュメジルがバンヴェニストの推挙もあってアカデミー・フランセーズに迎え入れられ、次の年一九七九年にアカデミーを代表してレヴィ=ストロースが「デュメジルによって新しい人間精神の力学が切り開かれた」と歓迎の辞を述べたことはすでに一つの神話となっている。エリアーデの『宗教学概論』(一九四八年)が久米博によって邦訳され出版(せりか書房)されたのも一九七四年のことであった。 こうした七〇年代の波動に揉まれながら、情熱と仕事が結合する幸運な機会に恵まれて著者(松村一男)は、良き師(吉田敦彦)もえて神話研究へと踏み出した。その後の研鑽と学の歩みの紆余曲折、研究者として疾走した痕跡の一つ一つを《神話思考》という主題のもとに集積し、それらを『神話思考Ⅰ 自然と人間』(二〇一〇年)、『神話思考Ⅱ 地域と歴史』(二〇一四年)、『神話思考Ⅲ 世界の構造』(二〇二一年)の全三巻に分類・収録した。『神話思考Ⅰ』は「神話学の歴史と理論」、「インド=ヨーロッパ神話」、「ギリシア・ローマ神話と聖書」の三部、三七編の論考から構成されており、著者の神話学の視座の形成とその輪郭を伺い知ることができる。『神話思考Ⅱ』には「日本神話」、「日本宗教」、「文化としての神話」、「神話思考Ⅰ以降」の四部、四二編の論考よりなり、視線がアジアに向けられる。 本書『神話思考Ⅲ』には「神話理論」、「インド=ヨーロッパ語族、ユーラシア神話、ギリシア・ローマ神話」、「日本神話」の三部、二四編の論考が収められており、松村神話学の広がりとその熟成とともに思考の緩やかな回帰を感得することができる。本書『神話思考Ⅲ』に付された研究業績の一覧をみれば、それが著者の「神話」をめぐる執拗な思考的徘徊とその深まりの軌跡であるだけではなく、世界における神話学の波状の歩みそのものを照らし出していることがわかろう。 またわが国の神話学の論議にも大きな影響を与えた著者の手になる訳業、デュメジルの『ゲルマン人の神々』(一九八一年)、『神々の構造 印欧語族三区分イデオロギー』(一九八七年)もまた本論考とともに改めて読み返されるべきだろう。デュメジル神話学の成果はいまだ十分に汲みあげられているとはいえないからである。デュメジルが神話の分析モデルに活用したインド=ヨーロッパ語族研究へのモミリアーノやギンズブルグらの批判はあったが、彼が古ローマの神話分析で発揮した力感溢れる思考の軌跡はいまなお学ぶことが少なからずある。《神話思考》は、世界がコロナ禍によって翻弄されているいま、縒れる狡智としてではなく、反転の叡智として捉え返されるにちがいない。(まえだ・こうさく=東京藝術大学客員教授・ユーラシア思想史)★まつむら・かずお=和光大学教授・比較神話学・宗教史学。東京大学大学院人文科学研究科宗教学・宗教史学専攻単位取得退学。著書に『神話学入門』『はじめてのギリシア神話』など。一九五三年生。