上妻世海 / キュレイター・文筆家週刊読書人2020年6月19日号(3344号)ボルネオ 森と人の関係誌著 者:佐久間香子出版社:春風社ISBN13:978-4-86110-684-2本書は、19世紀末から現在まで、100年以上に渡るタイムスケールで、ボルネオ島サワラクで暮らす「森の民」の生活の変遷を描き出した民族誌である。サワラクの歴史を多角的視点から学べるだけでも十分刺激的であるが、特筆すべきは、民族誌の中でこれまで分析の中心概念とされてきた民族や儀礼や言語ではなく、生活を分析の中心に据えていることである。本書は彼らの生活を近代史観の受動的対象としてではなく、様々な要因が相互に牽制し合うプロセスとして描きだしている。そのことは、作者が彼らの住む内陸部を、一次産品を河川を通じて港市に提供する従属的生産地としてではなく、ブルネイや華人、各集落や遊動民を結ぶ経済と縁組のネットワークとして捉え、長屋であり河川の結節点であるロングハウスを集荷と労働力と分配の場所として「商社」という比喩で語り、首長を「最高経営責任者(CEO)」に擬えていることにも象徴的であろう。 本書で生活の変数として扱われるのは直接的に交易に関するものだけではない。商業伐採と道路網の拡大、生活空間の観光事業化と空路の開発、NPOとの連帯も伴う先住民運動、更にはサワラクにおける為政者の変転すら、生活の直接的/間接的な作動配列の要素として分析される。作動配列が変わればできることも変わり、できることが変われば生活も変わる。実際、商業伐採や丸太加工業が発達すれば、それらも彼らの貨幣経済の一部に加えられるし、彼らはブルネイでの住み込み従業員や天然ガス、石油採掘作業員として働くこともある。国立公園が竣工すれば、ツーリストガイドや設備工事を担うことが彼らの貨幣獲得の手段へと変貌する。 確かにある観点から見れば、彼らは国家や企業が生み出した自分本位な突発的流動に右往左往し、不安定な生を強いられているように見えるかもしれない。しかし、本書で示されるのは流動化や不安定化に対する「森の民」の〈複合的かつ多面的な生業経済による生存戦術〉である。実際、彼らの活動の非貨幣経済部門と貨幣経済部門の割合を見ると、58・6%は非貨幣経済であり、貨幣経済は41・4%を占めているに過ぎない。彼らは伝統的な焼畑農耕による陸稲栽培、狩猟、林産物の採集、可食植物の栽培の組み合わせの上で、近代化と相互に牽制し合っているのである。学校に通い、企業に勤める「森の民」の生活は一見すると近代化の波に飲まれてしまったかのように思える。しかし、詳細に見ると、私たちの前に「自然」の中に都市的な要素が混ざった現代的生活の可能性が明らかになるのだ。 しかし、彼らの〈複合的-多面的生業経済〉を単なる近代化に対する現代的適応と見なすのも早計である。そもそも彼らは焼畑農業にすら依存していなかったのだ。彼らは焼畑民と分類されていながら、菜園や果樹園の手入れしかしないこともあれば、農地を数年間休耕地に当てることもあり、そうかと思えば、二、三年連続で同じ土地に米を植えることも珍しくない。このような不規則性が可能な理由は、彼らがキャッサバやサゴのような栽培と野生の中間形態にある植物利用(「半栽培」)を生業経済の一つとして持っているからである。彼らは農耕、狩猟、採集、半栽培など、複合的かつ多面的な生業を忘却することなく維持してきた。だからこそ、「枯渇していても飢えているわけではない」(メトカーフ)と言わしめるほど、流動性や不安定性へのレジリエンスがあるように見えるのである。実際、貨幣の獲得手段においても、国家や企業の影響を受けながらも、彼らは一方的にそれらに依存しているわけではない。伝統的な貨幣獲得手段であったツバメの巣採集は、中国での価格高騰やキリスト教の普及によって、一攫千金を目論む堕落した仕事と見なされる一方、自然災害や不作の年の「救荒収入源」として、未だ彼らと大地の連続性を担保しているのである。もちろん、ツバメの巣は中国において需要があることが前提になる。故に、大地との連続性とはいえ、生態学的-地政学的相互作用から切り離されるわけではない。しかし、野生状態と区別のつかない半栽培植物への依存度が高いことは食料保存や備蓄が少なくても流動性に耐えうる基盤をなしているし、ツバメの巣のような困った時に頼りうる貨幣獲得手段が存在していることは、貨幣経済においても彼らの複合的-多面的なエートスを担保しているように思われるのである。彼らは一方で国家やグローバル企業からの作用を受けつつも、他方で〈複合的-多面的生業経済〉から柔軟に生き残る術を選択し、その方法を忘れることなく継承することで反作用を及ぼしていることも事実なのである。 ここまでで本書における経済上の「森の民」の複合的な知恵を簡易的に紹介してきた。しかし、生存戦術として語る上で忘れてはならないのは娯楽と共同性の問題である。食べるだけならそんな分析は不要に思えるかもしれない。しかし、生の喜びがなければ、生存はできても実存を満たすことはできない。また、ヒトは個人で生きるのにあらず、群れを形成し、集団で生きる動物でもある。ヒトがヒトである限り、生きる上で楽しみを見出し、喜びを共有し、互酬性を築く方法は、生存戦術として欠いてはならない点である。本書はその点においても抜かりはない。先ほどの引いたデータによれば、農繁期と観光業の繁忙期が重複する時期にも関わらず、男性の活動は27・6%が狩猟に当てられていた。狩猟はデータ上非貨幣経済の一部でありながら、獲物を獲る際の戦略的-確率的興奮をもたらす娯楽でもあり、獲得された肉は仲間と共有される喜びでもある。更に、その肉は空路を経由してキョウダイやイトコ、親子の関係にある人々にも贈与される。狩猟獣の肉を贈与された都市の親族は、森林環境に暮らす親族の子供を預かり、都市部の学校へ通わせたり、都市で就労先を探す若者を住まわせるなどして、互酬的な贈与関係を維持してきた。 その互恵関係は村落、観光地、都市を強力に結びつけ、多中心化する生活を可能にしてきた。それらは元来の民族や言語、儀礼を中心に据えた分析では見えてこないものである。それらは動的な作動配列を元にした「生活」を基礎に据えることで初めて見えてくる視野である。「森の民」の語る起源と出自の神話的な物語に関しても、変動する配列の中で為政者やマスコミから与えられた名が逆に必要になることもあれば、流入してきた他民族との駆け引きの中で、伝統的かつ詳細な分節化が必要となることもある。彼らの自己同一性を担保する語りが、時として国家が把握している総称とは異なる原因も、彼らが作動配列に対して受動的なだけでなく、彼ら自身もそれらを利用し、複雑化する配列になんとか柔軟に対処しているからなのである。「森の民」が国民国家やグローバル企業の従属変数として悲劇的に扱われてきたことは問題を単純化しており、それらの影響がどれだけ大きくとも、彼らは生きているのであり、独立変数に伴って変えられるだけの沈黙した存在ではないのである。本書は確かにサワラクという馴染みのない土地の重厚な民俗誌であるが故に、読者にとって取っつきにくいものであるかもしれない。しかし、単線的なキャリアを描けなくなった流動化する現代日本においても、自然と文化を対立的に扱わず、〈複合的-多面的生業経済〉を模索する上で大変示唆的なテキストであることを、私は自信を持って伝えることができる。(こうづま・せかい=キュレイター・文筆家) ★さくま・きょうこ=立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員、京都大学東南アジア地域研究研究所連携研究員・文化人類学・東南アジア地域研究。主な論文に「サラワク人類学の系譜と今日的課題」(『マレーシア研究』6号)など。一九八二年生。