――いつまでも安田講堂と連赤だけで学生運動が語られぬように――小林哲夫 / 教育ジャーナリスト週刊読書人2020年6月26日号(3345号)「1968」を編みなおす 社会運動史研究 2著 者:大野光明出版社:新曜社ISBN13:978-4-7885-1664-9一九六一年生まれのジャーナリスト、佐々木俊尚氏は「三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実」の映画評で、東大全共闘をこう説明する。「1960年代末は日本のあちこちで学生運動が起こり、さまざまなセクトができたが、それらのセクトが大学ごとに集まって作ったのが「全学共闘会議」、すなわち全共闘」(「映画.com」三月)。 これについて、東大全共闘代表だった山本義隆氏はこう説いた。「全共闘は、党派的活動家だけではなく非党派・無党派の多くの学生や大学院そして研修医や助手からなる運動体であった」 なぜ、全共闘観にこうしたズレが生じるのか。その一つの要因は一九六九年一月十八、十九日、学生と機動隊との衝突シーンであろう。山本氏はこう話す。「安田講堂の攻防戦だけに焦点があてられた結果、闘争があたかも一握りの党派的活動家――マスコミ用語では過激派――のみによって担われたような誤った印象をあたえていたということがある」。 これら山本氏の主張が、『「1968」を編みなおす』所収の論文「闘争を記録し記憶するということ」に記されている。同書の編者三人は社会運動、学生運動の歴史をきちんと検証して客観性の高いものにしようとしている。 歴史といっても、幕末や明治維新、大正デモクラシーを語るということとは話は違う。一〇〇年前、一五〇年前をふり返るとき、そこに生き証人はいない。しかし、五〇年前の全共闘、六〇年前の六〇年安保を検証するにあたって、証言者はいくらでもいる。元学生運動活動家が酒席に集まれば、「10・21は新宿で暴れた」などと戦友会の様相になりがちだが、ノスタルジーに浸って美化されたストーリーでも、いくつもの事実関係と照らし合わせ慎重に検証すれば、学生運動の通説話が覆されることもあろう。 いや、もっと基本的なことも確認できる。たとえば、一九六二年生まれの小熊英二氏は『1968』(新曜社)で、ビラの印刷をスッティング、ビラの裁断をカッティングと称した旨を記している。これについて、山本義隆氏は前記論文で次のように触れている。「当時の運動に少しでも実際に関わった者ならば、こういう誤りは決してしない。そう、「カッティング」とは「ガリ切り」のことであって、「裁断する作業」ではない。(略)同書にはその手のミスが散見されるが、これも氏の一連の論考における希薄さである」。 学生運動をふり返るとき、いまだにメディアあるいはアカデミズムまでもが一九六九年の安田講堂と一九七二年の連合赤軍あさま山荘を象徴的に語ってしまう。そこから暴力性と殺人が強調されて、当時、学生が時代にどう向き合い、何を求めてきたかが置き去りにされてしまった。一九七〇年代以降、学生と社会との関わり合いが、きわめて希薄になってしまう。それによって、日本の社会で学生運動、学生による社会運動を受容する土壌までもなかなか作れなかった。学生主体の運動に対して国民の賛同が得られない、そもそも学生自身が運動の主体にならない、という時代が今日まで続いている。一九八〇年代の反核運動、二〇〇〇年代のイラク反戦運動、二〇一〇年代のSEALDsによる安保関連法案反対運動など、学生が表舞台に立つことはあったが、多数派とは言えなかった。 それでもどんな時代であっても、社会に向き合い、現体制に異議を唱える学生はいる。昨今ではコロナウイルス感染拡大防止で休校、オンライン授業になった分、授業料の返還を求める運動だ。立派な学生による社会運動である。現在の学生が社会に訴える術とし、過去の運動から学ぶこともあろう。そのために学生運動史、社会運動史の確立が必要となる。学生運動経験者は自らの経験を墓場まで持っていかず、負の遺産まで詳らかにする。それを学者、メディアがきちんと検証する。いつまでも安田講堂と連赤だけで学生運動が語られることがないように。(こばやし・てつお=教育ジャーナリスト) ★おおの・みつあき=滋賀県立大学人間文化学部教員。著書に『沖縄闘争の時代1960/70』など。一九七九年生。