――再臨と途絶えることなき生命の河――加藤隆 / 名寄市立大学前教授・道徳教育・キリスト教教育週刊読書人2021年6月4日号内村鑑三の聖書講解 神の言のコスモスと再臨信仰著 者:小林孝吉出版社:教文館ISBN13:978-4-7642-7445-7 本書は四六七ページに及ぶ大作である。著者は執筆の動機を「あとがき」に記している。「『内村鑑三――私は一基督者である』を書き終える頃、私は内村鑑三が信仰的生涯をかけた聖書講解という元始(はじめ)の信仰の森に分け入ってみたい、と思うようになった」。その言葉通りに、旧約聖書『創世記』から新約聖書『ヨハネ黙示録』の聖書六十六巻を内村鑑三の信仰的視座から講解している。それだけならば、一つの聖書注解書に留まるのだが、著者は独自の縦糸と横糸を織りなすことで、内村の聖書講解という次元を超えて、読者に大きな物語と「汝、如何にせん」と応答を迫る。 その縦糸と横糸とは何か。一つは、「楽園喪失と楽園回復」が底流にある。全歴史と全宇宙には壮大な救済物語が息づき、楽園回復という神聖なる計画に我々も預かっているという喜びである。もう一つは、「再臨と途絶えることなき生命の河」が全編に貫かれていることである。 さて、本書は、「プロローグ 神の言のコスモス」「第一部 旧約 楽園喪失―堕落と預言」「第二部 新約 楽園回復―贖罪と福音」「エピローグ 黙示と再臨―新しい楽園を生きる」の四構成になっている。「第一部」を通じて迫ってくる真実が二つある。一つは、人間観の再構築である。戦後民主主義が掲げる浅薄な「人間尊重の精神」でいいのか、キェルケゴールの言う「死に至る病」を抱えた危うい存在として観るのかが問われる。内村の言葉である。「日本が滅ぶとしたら、科学、芸術、富、愛国心の欠如からではなく、人間の真の価値についての認識、崇高な法の精神の感覚、人生の基本的原則に関する信念の欠如からである」。楽園回復の救いに預かる前提には、人間観の再構築が不可欠なのだ。 もう一つは、生命体のような一体性が聖書に満ちていることである。イザヤ書を指して内村は「モーセの律法とキリストの福音の合体したイザヤ書は、新約への福音の源であり、イエスはイザヤ書の言の実行を其一生の目的と為し給うた」と記す。著者は、それを援用して、イザヤ書はイエス・キリスト以前の、新約以前の「新約」であると喝破する。この宗教的な一体性を思うにつけ、華厳経の一節が心に浮かぶ。「一一(いちいち)の微塵の中に、一切の法界をみる」。一つひとつの微細なものにも、真実の世界のすべてを見ることができるという洞察である。生命的な一体性は宗教の持つ普遍性かもしれない。「第二部」で特筆するのは、著者は内村に聖書講解を雄弁に語らせながら、一方で、時代の混迷期に生きた人間内村の息づかいを添えているところである。たとえば、一九歳で夭逝した娘ルツを回想して内村は感謝する。「毎日彼女を想い出さざる日はない。自分の子を失ったことのない者は、幾ら神学書を読んでもキリストの再臨は解らないと思う。神は余をして高価なる授業料を払はしめ給ひて此大いなる真理を世に示し給うた」。このようにして、三人称だった内村の言葉が、「汝、如何にせん」と二人称で迫ってくる展開は見事である。 最後に、本書を通じて再認識したことを何点か書き記したい。一つ目は「永遠の否定」から「永遠の肯定」へということである。内村の親友の新渡戸稲造は、カーライル著『サーター・レザータス(衣裳哲学)』によって変貌を遂げる。「私の全心身は、Everlasting Noの目を見つめ、俺は貴様のものじゃない、自由人格だと。この時、私は霊的に再生した」と回顧する。本書を貫く「楽園喪失から楽園回復へ」もまた、読者に「永遠の否定」から「永遠の肯定」への霊的覚醒を語りかけている。二つ目は、著者の洞察力の深さである。時に、無教会の先駆者である藤井武や塚本虎二に聖書論を語ってもらう。時に、ドストエフスキーや宮沢賢治に人間の真実を語ってもらう。時に、神学者のカール・バルトや関根正雄に聖書講解を担ってもらう。これによって、本書は内村の聖書講解に豊かな彩りが添えられている。著者の今後のさらなる深化が楽しみである。(かとう・たかし=名寄市立大学前教授・道徳教育・キリスト教教育)★こばやし・たかよし=文芸評論家。「千年紀文学」編集人。明治学院大学文学部卒。著書に『内村鑑三――私は一基督者である』など。一九五三年生。