――いまだ縄跳びの円から駆け抜けられぬ私たち、偉大な歌人が残した大きな宿題――宮崎智之 / フリーライター週刊読書人2019年11月15日号レダの靴を履いて 塚本邦雄の歌と歩く著 者:尾崎まゆみ出版社:書肆侃侃房ISBN13:978-4-86385-374-4 短歌は、解釈が自由なところが面白い。たとえば、塚本邦雄が戦後に『日本人靈歌』のなかで詠んだ、かの有名な「皇帝ペンギン」の歌は、高貴な人と日本国民の比喩だという評論家・菱川善夫による解釈があることを後から知ったが、じりじりする夏の酷暑に耐えかねて、日本からの脱出を願う皇帝ペンギンの夢想を、隣にいる皇帝ペンギン飼育係にまで射程を伸ばし、閉塞感や倦怠を詠った歌だと解釈したほうが、私はしっくりくる。そうした想像の自由さが、短歌の魅力である。 しかし、自分の解釈や想像とぴったり合った文章を見つけるのも同じくらい面白い。尾崎まゆみの『レダの靴を履いて 塚本邦雄の歌と歩く』では、『日本人靈歌』の「少女死するまで炎天の繩跳びのみづからの圓驅けぬけられぬ」について、炎天の熱でアスファルトの逃げ水がゆらゆらと揺れる日本の残暑、自らが描く縄跳びの円に永遠に触れることもできないし、抜け出すこともできない少女への「甘くなくて怖い」眼差しを詠った作品だとした。自分の解釈と符合した文章を読みながら、尾崎は「皇帝ペンギン」の歌をどう読んでいるのかと、想像力を膨らませてみる。残念ながら同書にはかの歌については触れられていないが、その「空白」もまた楽しみの一つだ。 尾崎は塚本に師事し、その存在の大きさから、塚本が亡くなってしばらくは、師の短歌について書くことを躊躇していたという。しかし、塚本の遺品に触れ、翌朝、深い緑の林を見上げて散歩している時、自然と「レダの靴」の歌を口遊んでいた自分を発見した。「レダの靴」は、かつての懐かしい師との濃厚な時間から、尾崎が一歩踏み出し、どこまでも歌とともに自由に歩いていく思いを抱かせた。 本書には、当初はブログに書き綴られ、その後、加筆修正された2010年8月6日からの文章が収められている。「縄跳びの少女」の文章で、マザーグースの「ハンプティダンプティ」にまで想像力を膨らませ、自身の思い入れを語るなど、師の歌を自由気ままに心から楽しみ尽くす姿勢が心地よい。しかし、それだけでは終わらないのが、本書の刮目すべきところである。当然のことながら、文の末尾に記された日付は、あの日、つまり2011年3月11日に近づいていくのだ。 師が目撃しなかった惨状を前にして、なおも書き続ける尾崎。その筆に、自由さを楽しみながらも、過去から湛えられた「言葉」の重みを受け取る覚悟が備わっていく様を、読者は感じることができるだろう。 来年は塚本の生誕百年。塚本の生きた時代と同様、文明は人類に牙をむき続けている。いまだ縄跳びの円から駆け抜けられぬ私たちが、私たちをどのように解放し、過去からの「言葉」をどう紡いでいけばいいのか。偉大な歌人から大きな宿題を残されていると解釈するのも自由であり、また使命でもあると、ふと思った。(みやざき・ともゆき=フリーライター)★おざき・まゆみ=歌人。一九八七年塚本邦雄と出会い師事、「玲瓏」入会。現在「玲瓏」撰者、編集委員。歌集に、『微熱海域』『酸つぱい月』『真珠鎖骨』『時の孔雀』『奇麗な指』『尾崎まゆみ歌集』(現代短歌文庫一三二)など。一九五五年生。