――歴史の波にのまれ、流され、様々な土地に離散し、さすらい、旅を続ける民の歌、深い祈り――川瀬慈 / 国立民族学博物館/総合研究大学院大学准教授・映像人類学週刊読書人2021年10月8日号はじまれ、ふたたび いのちの歌をめぐる旅著 者:姜信子出版社:新泉社ISBN13:978-4-7877-2101-3 これは歌である。歴史の波にのまれ、流され、様々な土地に離散し、さすらい、旅を続ける民の歌であり、深い祈りである。歌は脈打ち生きている。地底にくまなくはりめぐらされた鉱脈のように真っ白な闇の底へと、どこまでも伸びていく。歌う主体はなにも生きた人間だけではない。海峡が歌い、風が歌い、島々が歌い、山野が歌い、草が歌い、溶岩が歌い、骨の小山が歌い、死者が歌い、吹雪が歌い、獣たちが歌い、カミガミが歌う。歌に境界はない。国家も民族も性もない。時空間を隔てる壁もない。生と死を貫通し、私とあなたの壁を溶解させ、転調し、変調する。人の意図や思考を超えて、歌自身が集い、身を寄せ合い、ひそひそと語り合い、増殖し、有象無象のさまざまな命を揺さぶり、ゆらりゆらりと漂い、歌い手を求めて、またひたすら旅を続けていく。 移民流民難民の道、旅を生きる人々の道筋にこぼれ落ちている、文字には書かれぬ想いを込めて語り継がれ歌い継がれてきた人間たちの物語に、心惹かれて、耳を澄ませて、声のするほう、歌の流れるほうへと漂いあるいてきたんです。 歌の流れるほうへと歩みをすすめようか。仰々しい国策に、残酷な争いに、押し寄せる津波に、体も魂も、チリヂリバラバラに切り刻まれ、風雨にさらされながら生きてきた人々がいる。カザフスタンのコリアン、働き者のソン・ナージャおばあさん、ハワイの日系移民が歌ったホレホレ節を後世に伝ようと努めるハリー・ウラタ翁。北の最果ての島に流れついたジャコウ鹿。そう、そこにはたくましく、したたかに生きる民の、生の呻き、悦び、いや哀しみともいえるような声が脈々と流れている。さらに歩みをすすめようか。 語りうる記憶を語って聞いて語り継いでいくことは、たぶん、そう難しくはない、渡せる心をやりとりして、分かち合うのは、おそらくたやすいこと。語りえぬ記憶を引き継いでいくこと。そっちなんでしょう、生きて死んで生きてゆくわれらにとって大切なことは。記憶に向き合い、記憶を語るのではなく、空白のありかへと向かい、空白に祈ることなのでしょう。 空白、そして空白への祈り。本書の通奏低音である、この真っ白い闇の場所に吸い寄せられていく。その闇に必ずしも形を与えなくても良い。強引に光を導き、照らさなくともよい。闇の底に佇み、深く呼吸をし、耳を澄ます。生き残ったことにうしろめたい思いをいだいていた元ひめゆり学徒たちがみえる。済州「四・三」事件をめぐる、語りえぬ記憶を持った無数の人々がみえる。長い間、決して声高には語ろうとしなかった彼ら、彼女たちが、おそるおそる語り始めた。すると、ざわざわと様々な声が真っ白な闇の中から立ち上がり、うねり、「私」という主体の殻をつきやぶり、彼ら、彼女たちを通して、語りはじめる。それらの声はさらなる歌となり、歌い手を求めて彷徨い、私に、そしてあなたに、また新たな旅のはじまりを促し続ける。なつかしく、なまあたたかい、白い闇を求めて。歌に誘われ、土と水の匂いに誘われ、村から村へ、街から街へ、野山を越え、海を渡り、いくつもの大陸を這い、マレビトたちは、類まれな吟遊詩人の著者は、旅を続ける。そして白い闇に歌い、祈り、世界に祝詞を投げかけ続けるのであろう。(かわせ・いつし=国立民族学博物館/総合研究大学院大学准教授・映像人類学)★きょう・のぶこ=作家。著書に『生きとし生ける空白の物語』『平成山椒太夫』『現代説経集』『声 千年先に届くほどに』(鉄犬ヘテロトピア文学賞)など。一九六一年生。