――ナチズムと東西分断のあいだで揺れるそのアイデンティ――伊藤洋司 / 中央大学教授・フランス文学週刊読書人2021年6月25日号物語としてのドイツ映画史 ドイツ映画の10の相貌著 者:瀬川裕司出版社:明治大学出版会ISBN13:978-4-906811-29-8 瀬川裕司『物語としてのドイツ映画史』は、全部で十の章と、間に挟まれた九つのコラムを通じてドイツ映画史を軽やかに語る。 第一章はドイツ映画のパイオニア、スクラダノフスキー兄弟とドイツ映画産業の父、オスカー・メスターの活動を語る。スクラダノフスキー兄弟はフランスのリュミエール兄弟よりもほぼ二か月早く、映画の有料上映会を開催した。第二章はドイツ映画と神話の関係を論じる。映画史の初期にはゲルマン神話に通じる闇の映画が撮られたが、やがて光の要素が現れ、ナチ時代にはギリシア・ローマ神話を指向する光の映画が撮られるに至る。第三章は戦前の映画におけるベルリンを語る。ナチ時代以前には、ベルリンは人々を誘惑する犯罪都市として暗いイメージのもとに表象された。ナチ時代に入ると都会の文化はいったん否定されるが、五輪とともにベルリンが映画の舞台として復権し、戦争中は兵士の心の故郷として描かれる。第四章は日本の李香蘭とドイツのツァラ・レアンダーを比較する。ファシズム政権下における異国映画のヒロインとして、二人の役割の共通点と相違点が考察される。第五章は冷戦期の東西両ドイツの映画を語る。五〇年代には、人物がベルリンの東西を何度も行き来する越境の恋が描かれた。六一年の壁の建設はこうした恋物語を困難にするが、冷戦が安定期に入っても、越境の物語は様相を変えて描かれ続ける。第六章はニュー・ジャーマン・シネマを語る。この潮流は主題としては疎外と挫折を、様式としては唯美主義と悪趣味を特徴とする。第七章と第八章はこの潮流を代表する映画人を取り上げる。まず、第七章はライナー・ヴェルナー・ファスビンダーと彼の映画の怪優、クルト・ラープを検討する。ファスビンダーは仲間たちと乱交やドラッグに明け暮れ、体制破壊者に見えるが、実のところ映画は体制破壊の不可能性を描いている。次に、第八章はヴィム・ヴェンダースとペーター・ハントケを検討する。二人は映画の表現の根源を模索しつつ、私的な世界のうちに普遍性を見出そうとする。ただしこれも、六八年の世代の問題意識から生じた探求だ。第九章はドイツ映画におけるヒトラーとナチ時代の表象を語る。『ヒトラー~最期の12日間~』が転換点となって、これらを商業的に活用する傾向が一般化する。最後に、第十章は二〇〇〇年以降のドイツ映画の動向を分析する。多様な民族性に基づく物語、社会的弱者や病んだ人々の物語、荒れる若者やネオナチの物語などが目立ち、ベルリン派と呼ばれる流派も登場する。 以上が本書の全容だが、不思議なことにドイツ映画史の書物でありながら、ウィリアム・ディターレの名前も、ペーター・ネストラーの名前も一度も出てこない。マレーネ・ディートリヒに関するコラムがあるので、ここでディターレの名前が出て来るかと期待したが、登場せずに終わる。F・W・ムルナウさえ、闇の映画の頂点として軽く言及される程度である。それは、この本が教科書的な啓蒙を目指すものではないからだ。書物が記述するのは、ナチズムと東西分断の暗い歴史に囚われ続けるドイツ映画のアイデンティティである。ヴェンダースとハントケだけは異質に見えるが、彼らも時代の制約を免れた訳では決してない。この本によれば、ドイツ映画は現代ドイツの厳しい歴史の囚人である。逆説的にも、個々の作品はまさにこの状況にその価値の根拠を持っているかのようだ。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)★せがわ・ゆうじ=明治大学国際日本学部教授・ドイツ文化史・映画学。東京大学大学院修士課程修了。著書に『ナチ娯楽映画の世界』『ビリー・ワイルダーのロマンティック・コメディ』『映画都市ウィーンの光芒』、訳書にツィシュラー『カフカ、映画に行く』など。