――運命にささやかな抵抗を貫いた名もなき女性の姿――菅谷憲興 / 立教大学文学部教授・フランス文学週刊読書人2020年8月21日号歴史家と少女殺人事件 レティシアの物語著 者:イヴァン・ジャブロンカ出版社:名古屋大学出版会ISBN13:978-4-8158-0993-5二〇一一年一月中旬、フランスの地方都市ナント近郊に住むひとりの少女が誘拐、殺害された。けっして恵まれた環境 で生まれ育ったわけではないものの、結局はごく平凡な人生を送っていたこの十八才の女性の事件は、逮捕された男の 挑発的な姿勢や、その後の捜査の難航、また監視社会化を目指す当時の政権の露骨な介入によって、瞬く間に政治的な 問題へと発展する。さらに、当初は秩序の代弁者として振舞っていた被害者の里親男性が、実は悪質なセクシャルハラ スメントの常習犯であることが明らかになるにあたって、メディアの報道熱はいやおうなく過熱。レティシア事件は、 いわば犠牲者を置き去りにして、政治と司法をまきこむ国家的スキャンダルの様相を呈することになった。 本書の著者イヴァン・ジャブロンカは、この三面記事事件を取り上げて、そこに作用する様々な社会的力学を、まるで 推理小説のなかの探偵のような手つきで解きほぐしていく。その叙述は歴史の書物としては少々凝ったものであり、複 数の物語が並行して語られ、章ごとに異なった時間が扱われる構成になっている。読者は、貧しいDV家庭に生まれた 双子の姉妹の人生をたどると同時に、犯罪捜査の現場に立ち会い、また時に歴史家による調査のプロセスを追体験する ことで、多様な角度からひとりの少女の生のありさまに迫ることができる。まさに「歴史は現代文学である」(ジャブ ロンカの著書のひとつのタイトル)と主張する著者の真骨頂というべきか。いずれにせよ、この歴史家の著作がフラン スで二〇一六年のメディシス賞とル・モンド文学賞という二つの「文学賞」を受賞したことは、ここに記しておいても よいだろう。 特筆すべきは、他ならぬ被害者の生に焦点をあてたことである。というのも、こういった事件を扱う場合、それが社会 学者によるものであろうと、あるいは文学者や思想家によるものであろうと、往々にして主人公になるのは犯罪者の側 だからだ。我々は罪を犯した者を一種のダークヒーローに祭り上げ、社会に対する無意識の反逆者とみなして、その違 反行為に制度に対する異議申し立てを見てとる傾向がある。その結果、歴史上の名高い犯罪者は伝説化することになり 、その中には一八三〇年代のパリを震撼させた殺人犯ラスネールのように、メディアを利用して自己イメージを作り上 げようとした者さえいる。レティシア事件の裁判の過程で、殺害者メイヨンが好んで自らを「怪物」に見せかけようと したのも、この負の魅惑の系譜につらなろうとするなかば無自覚な身振りだと理解できよう。 それに対してジャブロンカは、「『大』犯罪者など存在しない」と言う。「すべての犯罪者は小物であり、哀れな存在 」である以上、そこに負のオーラをまとわせるのは、我々の悪しきロマン主義にすぎないということだろう。そこから 歴史家は、シュルレアリスムからジュネ、さらにはフーコーにまでいたる作家・思想家と犯罪者との鏡像関係を批判す る。もちろんこれはいささか言いがかりだといえなくもない。たとえばフーコーがその手記の美しさに魅せられたピエ ール・リヴィエールは、のちに彼が「汚辱に塗れた人々」と呼ぶことになる「小物」でこそあれ、断じて大作家の分身 たるべき大犯罪者などではないからだ。とはいえ、「世に埋もれた者」(フーコー)という意味でならば、この本の主 人公レティシア以上にそれにふさわしい存在はいないこともまた確かであろう。 では、「被害者を犠牲にして殺害犯を持ち上げないような犯罪の物語」は、いかにして可能か。この本の著者が選んだ のは、レティシアの人生をできる限り犯罪から引き離すことだ。その命をむごたらしく断ち切った最後の瞬間にすべて を収斂させることなく、彼女が生きた軌跡を丹念にたどり直すことによってのみ、それは「死後も続けられる生の伝記 」となるだろう。ところで、その時浮かび上がってくるのは、男たちの理不尽な暴力である。 事実、この少女は生涯の間、数多くの虐待にさらされてきた。酔った父親が日常的に家族にふるう暴力の中で生まれ育 ち、まだ幼かった頃には父によって四階の踊り場から吊り紐でぶら下げられた経験もある。鬱病にかかった母にネグレ クトされ、深刻な学業遅延が原因で、姉妹ともに施設に預けられる。その後引き取られた里親の家では、ようやく落ち 着いた生活を見つけたかに思われたものの、その陰では陰湿なセクハラを受けていた(「説教をしながら尻を愛撫する 」里親!)。最後に、思春期のちょっとしたロマンスのつもりが、粗暴な相手に無理やりレイプされ、無惨に殺された あげく、死体を切断される。それだけではない。その死後も、今度は共和国大統領による事件の政治利用(「犯罪ポピ ュリズム」)によって、彼女の生は簒奪されるのだ。 このような圧倒的な暴力にさらされながらも、しかしながら、この本で描かれるレティシアの肖像には不思議な明るさ が宿っている。おそらくそれは、彼女が不器用ながらも、自由を求めてあがき続けたからであろう。内気で、沈黙がち だが、けっして運命に屈しようとはしなかった傷つきやすい少女。「従順だったけれど、反抗的でした」という双子の 姉の一見矛盾する証言は、きわめて感動的だ。その悲惨な結末にもかかわらず、自らの置かれた状況に対するささやか な抵抗を貫いた名もなき女性の姿に、深く勇気づけられた。(真野倫平訳)(すがや・のりおき=立教大学文学部教 授・フランス文学)★イヴァン・ジャブロンカ=歴史家・作家・パリ第13大学教授。著書に『私にはいなかった祖父母の歴史 ある調査』 『歴史は現代文学である社会科学のためのマニフェスト』など。一九七三年生。