――伝統的な文学史の再検討を行う――菅谷憲興 / 立教大学文学部教授・フランス文学週刊読書人2021年1月15日号文学史の誕生 ギュスターヴ・ランソンと文学の第三共和政著 者:アントワーヌ・コンパニョン出版社:水声社ISBN13:978-4-8010-0522-8 アントワーヌ・コンパニョンの名著『文学の第三共和政』(原題)が、『文学史の誕生』という邦題のもとに翻訳刊行された。ロラン・バルト最後の高弟として知られる著者は、クリステヴァのもとで博士論文(『第二の手、または引用の作業』)を執筆し、文学理論の新鋭として一躍名をはせた後、バルトの死と相前後するようにアカデミックなスタイルへと急速に傾斜。八三年に出版された本書は伝統的な文学史の再検討を行ったものであり、まさに転向の書として様々な毀誉褒貶にさらされてきた。実際、当時「新批評ヌーヴエル・クリテイツク」の信奉者たちが集まっていたパリのフローベール・セミナーで、本書の一部となる原稿を著者が発表した際に巻き起こった反応の激しさについては、評者も耳にしたことがある。本書のところどころに差し挟まれるおどけた対話体の自己弁明は、このあたりの事情を反映しているとみていいだろう。評者自身は今回日本語で読み返してみて、きわめて巧妙な書物だという印象を新たにした。以下、私見を交えながら、かいつまんで内容を紹介したい。 まず、第一部は文学史の成立の解説に当てられている。アリストテレスの『詩学』以来、それこそ文学をめぐる思考自体は数限りなくあるものの、歴史的なアプローチがその主流を占めるようになったのは実はそれほど遠い昔のことではない。いまや我々の学校教育の中にまで入りこんでいる文学史だが、アカデミックな制度の中のひとつの教科デイシプリンして確立されたのは、本書が詳述するように、十九世紀末から二十世紀初頭にかけてのフランスにおいてであり、その立役者がギュスターヴ・ランソンである。 ところで、一口に文学史と言っても、フランスのそれは他国には見られない方法論的な徹底性を特徴としている。作家の着想の元を探る源泉研究や影響関係の調査というと、どこにでもある研究・批評の手続きのようだが、少なくともランソンとその弟子たちにとって、大学における文学研究とは端的に歴史学に属する科学であり、教養や修辞学といった古典人文学の素養、あるいは文学的感性にもとづく批評からは完全に切り離されていなければならない。この立場が特殊なのは、フランス以外の国で書かれた何らかの文学史、たとえば加藤周一の『日本文学史序説』がはたして純粋科学を標榜しているかどうかを考えてみれば分かるだろう。一方、ランソン流の文学史はそもそも学識ある一般読者ではなく、もっぱら大学人に向けられたものであり、第三共和政期に文学が高等教育のカリキュラムに組み込まれていく過程で作り出された学問なのだ。 それにしても、文学性を意図的に排除する文学史(!)というこの矛盾した選択をどうとらえればよいのだろうか。コンパニョンによれば、ランソンが目指したのは、十九世紀末の大学改革の中で居場所を失っていた文学を救うことであり、そのためのモデルとなったのが当時花形であった歴史学だという。古典人文学が重視していた教養や趣味の涵養が、結局は生まれや環境にともなう文化資本に左右されるという意味でエリート主義的であるのに対し、共和国におけるあるべき教育は(我々自身もその一人であるような)「凡庸な人々」をこそ対象とする。要するに、フランスの文学史は「民主主義に気に入られるために、どうすれば文学を科学的にできるか」という問いから生まれたのであり、各人が身の丈にあった狭い専門を掘り下げる分業(つまり蛸壺化)は連帯の証しとして称揚される。というと、かなりアイロニカルに聞こえるかもしれないが、どうやらランソン自身はあくまで真剣に民主主義的な価値の実現を意図していたようだ。 考えさせられる逆説である。なるほど実証的、共同作業的な文学史の凡庸さを一笑に付すことは容易だが、芸術についてのセンスが貴族主義的な贅沢とみなされる平等の時代、万人に手が届く方法を提示することで、文学研究を延命させたランソンの功績は一概に否定できるものではない。人文学の危機が叫ばれ、役に立たない学問にいそしむ文系の研究者が既得権者として世間からバッシングを受ける現在の日本においても、「繊細な戦略家」としてのランソンから学ぶことはけっして少なくないはずだ。とはいえ、「文学とは何か?」という問いを回避する文学史が、その後急速に失速したというのも、当然と言えば当然の帰結である。では、どうすればいいのか? 本書の第二部はまさにこの疑問に答えようとするものであり、プルーストとフローベールという文学性の権化のような二人の作家を呼び出すことで、ランソンの限界を補足する試みである。といっても、コンパニョンの筆はここでも韜晦に満ちていると言わざるをえない。ヌーヴェル・クリティックにならって実証的な知には還元されない作品の内在的な力を主張するのかと思いきや、あにはからんや、著者の狙いはむしろ、ランソン的な思考の前提をなしている民主主義そのものに留保をつけることであるように思われる。まずプルーストの「反=知性的」な読書論が分析された後、フローベールの遺作『ブヴァールとペキュシェ』の政治的読解にかなりの紙幅が割かれている。とりわけフローベールを哲学者テーヌと比較する章は秀逸であり、この二人を含めた十九世紀フランスの作家たちの多くがリベラリズムの立場からデモクラシーに深い懐疑をいだき、その制度的な表現である普通選挙を「人間精神の恥辱」だとみなしていた事情が明らかになる。現代の先鋭的な文学や批評が自らの先駆者にまつりあげた小説家が、実は「フランス的反動」の体現者だったというアイロニカルな結論は、後に『アンチモダン』で反近代の精神史を描くことになる批評家にふさわしい挑発性をそなえている。ちなみに、アンチモダンとはモダン(近代)に抗するモダン(近代人)のことであり、それこそが真正なるモダンだとされる。 おそらく著者の思考の根底にあるのは、本書にも名が出てくるトクヴィルが十九世紀前半に提起したのと同じ問題意識ではなかろうか(コンパニョンにはこの政治思想家についてのすぐれた論考もある)。事実、『アメリカの民主主義』の作者によれば、デモクラシーは必然的に画一的な平板さへと向かう傾向がある以上、精神的な卓越性を旨とする文学は衰退を余儀なくされるという。いわば文学終焉論を先取りするような議論だが、トクヴィルと同時代の作家たちが感じていたこの歴史的危機感を、現代フランスの知識人も共有しているということだろうか。だが、二十一世紀初頭の日本に生きる一読者としては、このような反時代的な民主主義批判がはたして現状に対する有効な抵抗たりえるかどうか、正直確信がもてないでいる。(今井勉訳)(すがや・のりおき=立教大学文学部教授・フランス文学)★アントワーヌ・コンパニョン=コレージュ・ド・フランス教授・フランス文学・文学理論。著書に『文学をめぐる理論と常識』など。一九五〇年生。