――死と暴力に溢れた世界で生き残るために戦う女性の物語――杉江松恋 / 書評家週刊読書人2020年4月10日号(3335号)夕陽の道を北へゆけ著 者:ジャニーン・カミンズ出版社:早川書房ISBN13:978-4-15-209914-3なんとしても生き延びなければいけない。あと一日。そしてもう一日。 この世界は暴力に満ちており、無数の人々が理不尽な死を迎えている。ジャニーン・カミンズ『夕陽の道を北へゆけ』は、日常生活を突如奪われ、幼い我が子と共に生き残るため、全力で戦わなければならなくなった女性を主人公とする長篇小説である。 凄惨な場面から物語は幕を上げる。リディアと八歳になる息子のルカがバスルームに隠れている。外には男たちの話し声がする。ルカの祖母の家でパーティーが開かれている最中に、殺戮者による襲撃があったのだ。リディアの夫、セバスチャン・ペレス・デルガドが、カルテル〈ロス・ハルディネロス〉の長・ハビエルの悪行を暴き立てる新聞記事を書いたことへの報復措置である。セバスチャンを含む親族十六人が殺され、リディアとルカは生き残った。しかし、現場に駆け付けた警察官に頼ることはできない。警察にも〈ロス・ハルディネロス〉の息がかかっているからだ。助かるための選択肢は一つだけ、巨大犯罪組織でも手の及ばない国境の向こう、アメリカ合衆国に到達するしかない。 メキシコ南部の都市アカプルコから数千キロに及ぶ距離を二人は北上していく。カルテルの情報網は至るところに張り巡らされており、それをかいくぐるためにリディアたちは苛酷な体験を強いられるのである。〈野獣〉と呼ばれる貨物列車の屋根に張りついての移動はもちろん危険だが、それ以上に恐ろしいのは移民を食い物にする悪人の存在だ。リディアの眼前で幾度となく地獄のような光景が展開されることになる。 アメリカ合衆国には、新興国の共産化を防ぐために内政干渉を行ってきた黒い歴史がある。中南米の麻薬戦争はそれによって引き起こされた一面があり、合衆国にとっての宿痾というべき重い問題なのである。そのことを主題にした犯罪小説は既に多数あるが、先行作と本書の違いは、事態に巻き込まれた被害者の視点から語るという姿勢を貫いている点だ。ごく普通の女性であるリディアにとってはカルテルに対して報復することなど問題外で、何が起きてもルカと共に息を潜めてやり過ごすことしかできない。生きること自体が闘いなのである。そうした徹底した弱者の立場に主人公を置くことで作者は、彼らを脅かす暴力の本質と、それに汚されずに生きることの困難さを浮かび上がらせようとしている。 旅の途中で母子は十代の姉妹、ソレダとレベカに出会い、共に行動するようになる。彼女たちも、生きたいという意志以外には何も武器がない、無力な犠牲者だ。そうした弱者たちが、共に助け合って気の遠くなるような行路を一歩、また一歩と進んでいく。本書で描かれるのは死と暴力だけが支配するように見える世界だが、その中にも人としての尊厳を失わずに生きようとする者は存在するのだ。私は良心についての小説として本書を読んだ。(宇佐川晶子訳)(すぎえ・まつこい=書評家)★ジャニーン・カミンズ=プエルトリコ系アメリカ人の作家。ニューヨーク在住。スペインのロダで生まれ、メリーランド州ゲイザーズバーグで育つ。