――一三五五頁に及ぶ走破の記録――林浩平 / 詩人・文芸評論家週刊読書人2020年6月5日号(3342号)岡田隆彦詩集成著 者:岡田隆彦出版社:響文社ISBN13:978-4877991661正直に申し上げる。岡田隆彦の詩をこれまで身を入れて読んだことがなかった。どうしてだったか。わたしが現代詩の世界に強い関心を持って、毎月の「現代詩手帖」誌の発売日を焦がれるように待ち、灼けるがごとき内的な促しのまま詩論を綴りだした一九八〇年ころは、岡田の詩のスタイルは、アクチュアリティを欠くものと思えたからだ。当時はエクリチュールという概念が時代の寵児だった。それは幻惑的な力で詩的言語に革命をもたらしてくれるのではないか、そんなヴィジョンを抱え込んだわたしには、岡田のスタイルは素朴な饒舌体に過ぎないと映ったのだろう。一九八二年からわたしは詩誌「麒麟」に参加したが、「麒麟」の同人にとっても、先を歩む眩しい先輩とは吉増剛造であって、吉増といわばライバルの関係にある岡田ではなかった。 本書は、一九九七年に五十八歳で亡くなった岡田が残した十五冊の詩集と未収録作品を網羅したもので、本文が一三五五頁を数える大著である。監修は、吉増と稲川方人のふたり。 本書の誕生を、彼らの並々ならぬ情熱が後押ししたのは間違いない。岡田とは確執の生まれた時期もあったというが、詩を書き出した時からの親友だった吉増が本書の刊行に力を尽くすのは納得できる。しかし、八〇年代にはまさに急進的なエクリチュール派であった稲川が、岡田の世界にこれほど傾倒するのは何によるのか。本書の書評依頼を頂戴して、よし、熟読してやろうと決意したのには、そんな気がかりも関わった。 本書を読んだ。実際に経験したことはないが、フルマラソンを走り終えた者が持つ、一種の充足感のようなものは残った。それには晩年の二冊、『鴫立つ澤の』と『植物の睡眠』の完成度の高さがもたらす安らぎによるところもあろう。前者に収められる「物がうつる日々」全行を引こう。「あの人の瞳に/わたしの心はどんなかたちに/映っているのかしらん。/(鏡は何も語らない)/人や物が映るというのは/ほかに移るということだ。/移れば変る。/創られたものはすべて/時という水の上に映り、/揺れたり/別のものと重なったりして/やがて消えてゆく。/物がうつる日々の、/せつない繰り返し。」 この腰の据わった語りくちは見事である。若いころのあのヤンチャな饒舌ぶりが、加齢による詩心の成熟によってこうも洗練されたのだろうか。いや、どうもそうではないようだ。岡田の語りのスタイルは一貫していよう。処女詩集『われらのちから19』のなかの「消化されない」の書き出しを読んでみようか。「失うものははかりしれない/日々の饒舌のなか/嵐に傾く樹を抽象して 得た符号/そのまえに捨象されて遠のくものの茫漠たる群/発せられる億万の記号は/伝達されて思考を伴い/意味を呼んでイメジを生む/ひとのうちにうごめくイメジ/情念は言葉に包まれ/ことばは己を去って単独の実を結ぶ」 自らの詩作の行為を見定めての思弁が言語化されるくだりだが、この時点ですでに安定したナラティヴを獲得していよう。岡田隆彦は、エクリチュール派ではない。あえて反対概念を用いるならパロール派である。それも散文体の語り手なのだ。 読者の記憶に残りやすい名フレーズを量産するのは吉増剛造だが、「独立」の名フレーズ「バッハ、遊星、0ゼロのこと」は、定型音数律の七五調である。だから「歌う」ことになる。その点、岡田には七五調がない。本書のなかで、「あすか川」の「湧きあがり/あふれだし/あつまって」や「流れゆく」の「しぶきあげ/あわを吹く。/したたって/ふれたとき/それにつく。」というくだりがそうだが、五五調なのである。よって決して「歌う」ことなく、散文性の語りが実践されてゆく。そこがポイントだろう。 本書は、決して歌うことなく語りを続ける岡田隆彦の残した、一三五五頁に及ぶ走破の記録だと言ってよい。(はやし・こうへい=詩人・文芸評論家) ★おかだ・たかひこ(一九三九~一九九七)=詩人・美術評論家。慶應義塾大学文学部在学中に、吉増剛造、井上輝夫らと詩誌「ドラムカン」創刊。詩集『時に岸なし』で第十六回高見順賞を受賞。美術に関する著作、翻訳も多数ある。