――もう一つの「残留日本人」史?――南誠/梁雪江 / 長崎大学多文化社会学部准教授・歴史社会学・国際社会学専攻週刊読書人2021年7月2日号海外引揚の研究 忘却された「大日本帝国」著 者:加藤聖文出版社:岩波書店ISBN13:978-4-00-061434-4 かつての出来事を歴史として論述するのに、どれほどの時間経過が必要なのか、どのように記述/評価すべきなのかは難題である。そうした出来事の影響が現在も強く残っている場合はさらに難しい。第二次世界大戦後に起きた宗主国と植民地との間の本国帰還といった地球規模の国際移民もその一例である。日本もようやく戦後75周年の節目に当たる2020年に、かつての勢力圏からの引揚の歴史化と総括を試みる『海外引揚の研究――忘却された「大日本帝国」』が出版された。 序章によれば、本書の目的は各論的な先行研究しかないことに鑑みて、海外引揚を包括的に扱い、その全体像の提示と日本の脱植民地化の特質の明晰化である。また「海外引揚」を「引揚問題」と「引揚者問題」に分けて議論を展開している。前者は引揚の発生原因とその過程、その過程における国と組織の動き、後者は引揚者自身の体験と引揚後の生活、および、国や組織の援護活動や定着支援の影響に関する研究課題である。 本論の第1―5章は主に「引揚問題」、第6―7章は「引揚者問題」について検証している。第1章は海外引揚の発生状況とそれをめぐる各国の動きなどの実証分析を通じて、海外引揚を俯瞰的に論じている。これに次いで第2章は引揚のなかで最大の犠牲と悲劇を生んだ満洲、第3章は満洲と正反対の状況に置かれる国民政府支配下の台湾と中国本土、第4章はソ連軍の支配下に置かれた大連・北朝鮮・南樺太、第5章は「南朝鮮」からの引揚を取り上げている。第6―7章は歴史編纂と慰霊を手がかりに、戦後の日本社会における引揚げ体験の意味づけについて考察している。そして終章では総括と今後の研究展望を行っている。 対象地域も扱う資料も議論/検討すべき対象と概念も広範囲にわたる引揚研究を著者一人で完成させた本書は、労作であることはいうまでもない。本書の議論によって、引揚の実施に際しての国際関係とくにアメリカの対中戦略転換や、日本政府内の様々な動きが鮮明になり、ソ連と中共支配下の地域や、国民党政権支配下の地域と米軍支配下の南朝鮮のそれぞれの特徴も具体的に検証された。満洲引揚者と慰霊を手がかりに比較検討された引揚体験の記憶化とその多義性も興味深い。無名の人々の体験談やメディアでの表象などの資料の歴史学的活用や、一国史の枠組みを超えた立体的かつ重層的な東アジア史の提示といった引揚研究が切り拓く可能性に関する論及も示唆的である。 しかし本書は海外引揚の全体像の提示を研究課題に掲げつつも、一般にいう前期集団引揚(1946-50年)しか議論の俎上に載せていない。敗戦前に戦場となり、事実上引揚(疎開)が始まっていた南洋諸島と東南アジアも検討対象から外されている。こうした研究時期と対象の限定は戦後の冷戦構造における東アジアの国際関係に関わる議論の展開を容易にするが、引揚の全体像を把握するのに必ずしも有効とは限らない。また1980年代以降に定着した「残留日本人」という呼称で論述している。その理由は明記されていないが、「残留日本人」に準拠して体験を語る引揚者に出会った評者の経験からすれば納得できる部分もある。こうした戦略的な論述は引揚者問題を理解しやすくする反面、引揚者の歴史的意義とその多様性を見過ごしてしまう恐れもある。同時に歴史化作業における客観性の担保、論述方法といった歴史学の作法に関わる課題をも投げかけている。 著者が総括したように、本書は研究の精緻化に反比例して一国史を超えた東アジア史の全体像の提示に至ることができていない(234頁)。海外引揚の全体像に関しても同様に指摘できよう。「大日本帝国」もサブタイトルにあるように野心的な試みであるがゆえに、充分に展開できなかった論点が散見される。しかし本書によって引揚研究に新たな境地が切り拓かれ、多くの研究課題が鮮明化されたことは確かである。 引揚は過ぎ去った歴史でも引揚者だけの問題でもない。現代の日本社会を照らし出す鏡である。21世紀に入ってから、引揚者2世らの努力によって開館された「満蒙開拓平和記念館」が国内外から注目されているように、国境を越えて他者と対話しつながりを築く可能性も内包されている。本書は引揚に興味をもたない人にとっても、一読の価値はある。(みなみ・まこと/りょう・せつこう=長崎大学多文化社会学部准教授・歴史社会学・国際社会学専攻)★かとう・きよふみ=人間文化研究機構国文学研究資料館准教授・日本近現代史・東アジア国際関係史・アーカイブズ(歴史記録)学。早稲田大学大学院博士後期課程単位取得退学。著書に『満蒙開拓団 虚妄の「日満一体」』など。一九六六年生。