ニュー・エイジ登場樋口恭介 / SF作家、会社員週刊読書人2020年8月28日号すべて名もなき未来著 者:樋口恭介出版社:晶文社ISBN13:978-4-7949-7177-7 この文章は、資本主義や、社会主義や、優生主義や、合理主義や、科学主義や、知性主義や、反知性主義や、自由主義や、加速主義や、新反動主義や、その他あらゆる主義主張に対する抵抗として書かれている。もちろん抵抗の対象はそれらであってもそうでなくてもかまわない。重要なのは、抵抗することそのものなのだ。 一般に、人は良い人生を生きなければならない、と考えられている。わたしたちは生きていてよかったと思える生を生きなければならない、そのためには他人の役に立たなければならない、社会をよりよくするために働かなければならない、というように。誰かの役に立たなければ生きている価値はなく、何かを生産していなければ生きている価値はない。わたしたちは夢を持たなければならず、夢は、可能な限り具体的に、測定可能なかたちで、期限があり、達成可能なものでなければならない。夢を叶えるためにわたしたちは、誰にとっても意味があると了解できることをしなければならない。わたしたちは、生まれてから死ぬまで、努力をし、成果を残し、他人の評価にさらされ続けなければならない――そういったことを、わたしたちは、さまざまな仕方で繰り返し刷り込まれる。 しかし、当然のことながら、生とはそのようなものであるはずがない。わたしたちは誰のために生きるのでもなく、何かのために生きるのでもない。目的や理由が要請されるのは、単に社会にとってそのほうが都合がよいからで、それは社会の側の都合でしかなく、他人の側の都合でしかない。それはわたしの都合ではなく、あなたの都合であるはずがない。わたしたちはただ生きるのだし、どこまでいってもただ生きることしかできない。人生とされているものと生そのものにはなんの関係もない。誰の役にも立たない生だとしても、それどころか誰にとっても迷惑な生だとしても、何も生み出すことのない生だとしても、生はそこにあってよいのだし、生は現にそこにある。生はただあるものであり、生は生単独で、自分自身に対する評価や判断を行わない。 無為であること。誰の役にも立たず、何の役にも立たず、何も成さないこと。無為の世界では積極的なことは何も行われない。学生はカンニングをし、会社員は仕事をサボる。誰も労働のための労働を必要とせず、労働のための労働以外の労働すらも必要としていない。電車は時間通りにはやってこず、時計の針は狂いまくっている。そもそも時間は守られないのだから、誰も時間を重視していない。そこでは線形の時間概念は失われ、計画概念は失われ、事業や政策や戦略は失われている。市場競争は失われ、個人間の闘争は失われ、あらゆるものごとの価値を評価する尺度は失われている。優れているものと劣っているものを見分けることは難しく、みながへたくそな絵を描き、へたくそな鼻歌をうたい、へたくそな文章を書き、それらを共有して遊んでいる。子供や老人や身体障害者や同性愛者はただ単に子供や老人や身体障害者や同性愛者として見なされ、それ以上でもそれ以下でもない。ただ単に、そこにある生がそこにある生として肯定される。 もちろんそんな世界はどこにもないが、どこにもないということは、どこにもないものへの想像を禁じることを意味しない。わたしは無為を肯定し、無為の世界を想像し、無為の世界の到来を願っている。生きる人がみな、誰の役に立たなくとも、何の役に立たなくとも、何も意味のあることを成さなかったとしても、あるがままの生のまま、ただ生きられる世界を願っている。奇跡は起こらないかもしれないが、おそらく奇跡に近似することならできる。わたしはいつも、そんなことを考えながら、無為の文章を書いている。わたしは、あなたがいま、人生に抗って、あなたの生そのもののうちにある、無為のあなたとともにあることを、ささやかながら願っている。 ★ひぐち・きょうすけ=SF作家、会社員。著書に長篇『構造素子』(第5回ハヤカワSFコンテスト〈大賞〉受賞)、評論集『すべて名もなき未来』。その他文芸誌等で散文を執筆。会社員としては外資のコンサル会社でマネージャーをしている。一九八九年生。