――異質な素材を交差させ、人間に固有の生の次元を捉える――西村ユミ / 東京都立大学教授・看護学週刊読書人2021年9月24日号交わらないリズム 出会いとすれ違いの現象学著 者:村上靖彦出版社:青土社ISBN13:978-4-7917-7390-9「リズム」と聞くと音楽を連想する。が、本書はそのリズムが「交わらない」という。現象学は哲学だが、その言葉を修飾するのは「出会いとすれ違い」である。この書名のとおり、本書は音楽と哲学、絵画や小説、ドキュメンタリー映画、手記、医療福祉の現場の人びとの語り等々、異質な素材を交差させ、現象学の方法によって、縦横無尽にリズム論を展開する。 著者である村上は、二〇一〇年以降、ケアの現場を調査しその実践がはらむ不思議な構造を、文学や哲学を題材にしながら取り出そうとしてきた。本書では、この取り組みで学んだことを哲学の課題として引き受け、リズムとメロディーという概念を軸として、行為と出会い、あるいは出会いそこないについて論じ、人間という生物種に固有の生の次元を捉えることを試みる。そして、著者にとって通奏低音であったリズムが、本書をとおして「人間とはリズムである」というテーゼへと結実する。 村上は、哲学者エミール・バンヴェニストのリズムの定義「動きのただなかで立ち現れる形」を自身の現象学の姿として読む。だから、現象学とは「人間の経験を作っている〈目には見えない運動〉を、その〈内側〉から捕まえて描き、加えて、その動きを成り立たせている経験の背景・スタイルや社会条件がもつ形を含めて描き出す営み」なのだ。この現象学という方法論をとると必然的に複数の異質なリズムが絡み合ったポリリズムが浮かび上がる。第Ⅰ部から第Ⅲ部では、これを実際に行って見せる。 ポリリズムとはどのような経験なのか。第Ⅰ部の導入では、絵画を見たとき音が鳴る、著者には「ぎーん」という響きが聴こえるそうだが、それが経験されるファン=エイクの『宰相ロランの聖母』から、異質なリズムの交差が取り出される。これを下敷きに、中井久夫の回復のリズムと木村敏の音楽論から、対人関係を中心とした生活を貫くリズムの場が分析される。合間に、芥川龍之介の『歯車』、看護師やダルク女性ハウスを立ち上げた者の語りを挟み込み、そこからリズムの場、そしてベースのリズムが取り出され、それが異質なポリリズムを繫ぎ、ポリフォニーの場である「あいだ」から一つの音楽を産出させる。次いで、〈リズムのゆるみ〉という視点から居場所、それが、よしもとばななの作品やこどもの里の代表、ユマニチュード、作曲家の言葉を介して、「何もしなくていい」という居場所の沈黙が、ノイズを語りへと変化させることを見出す。 第Ⅱ部では、ポリリズムがずれたり合ったりするタイミングに焦点が当てられる。ドラえもんの「ひみつ道具」の登場に驚きつつも、その後の分析に引き込まれる。芥川の小説『藪の中』の登場者たちの語りのずれからは、死角としての〈身体の余白〉が炙り出され、精神科閉鎖病棟への入院経験者の語りからは、ビアノという「ひみつ道具」=移行対象を得ることで、対人関係のあり方の変容が描写される。訪問看護師の語りからは、支援者が〈変化の触媒〉となって〈変化の支点〉を作り、ポリリズムの再編成を促すことが記述される。ここで紹介された、母親が亡くなるまでその母とすれ違っていた子どもたちが、看護師に促されて母の遺体に手を添える場面は、本書で何度も取り上げられる。母の遺体と子どもの手の接点を支点として世界が変容するという、支援がつくる構造は、本書全体を貫いている。 第Ⅲ部では、思想家ルソーの「歌(メロディー)が人間が人間となるための条件をなしている」という考えを真にうけると宣言し、メロディーを論じる。聴覚障害をもつ写真家のドキュメンタリー映画『歌のはじまり』の分析からは、「ことばの前のことば」である静けさはポリリズムとメロディーが開かれるゆりかごだ、と述べられ、「何十時間も話をして伝わるものよりもさらに深いもの」としての沈黙が描写される。さらに、ルソーを手がかりにすることで、「歌」は人と人をつなげる力であり「意味」という人間的な水準を開く力であることが見いだされ、人間は「歌を媒介として自らと他者の生命を感じ取る存在」と定義される。だから「歌とは他者の生命による触発」なのだ。他方で、刑務所の中で書かれたジャン・ジュネの小説から、「歌」は、対人関係を断たれた孤立のなかにあってもなお、自分自身を保つ力であることが示される。ここでは「反転」という構造が機能する。 村上の、こうした現象学的分析に伴走して気づいたことがある。現象学は〈目にみえない運動〉をその内部から捕まえて描くことであると定義されたが、内部といっても、捕まえようとするある一人の経験の内部に留まらない。そもそも経験はポリリズムに貫かれている。著者はそうした経験に、その経験にとっての異質な素材を挟みこむことで、新しい概念と意味を見出しているのだ。異質という触媒によって〈変化の支点〉が作られ、言葉になっていなかった〈身体の余白〉が言語化される。異質かつ多様な例の描写は、時に読み手を迷路に迷い込ませる。しかし、短編小説『猫町』にあるとおり、世界のなかで身の置きどころと座標を失ったカオスの状態は、新たな世界の形を生み出す基盤なのだ。 こうした議論を経て、村上は「ポリリズム」を見出す現象学的な質的研究(PQR)の理論化へと向かう。流れる運動そのものを探求していたベルグソンの哲学を理論的裏付けとし、目に見えない変化する事象に着目し、未だ形をもたない「イマージュ」間の連結を明らかにすることで言葉を生み出そうとする。この個別的なものから生まれる言葉は〈触発する真理〉となる。私もまた経験するかもしれない潜在性の地平を共有しているがゆえに、自分にとって全く未知の遠い経験が自分のものでもありうるものとして触発しうるためだ。 なるほど。本書を読み終えた私には、あちらこちらに、ポリリズムや〈変化の触媒〉〈変化の支点〉が見えてくる。しかし村上は述べる。本書で書かれたことは「理念として、こうなるべきである」ではなく、事象が「こう生成している」ことの探究である、と。村上が見出したことは、当てはめるものではなく、その生成を見出す触媒なのだ。 人間をリズムと定義してもなお、村上のリズム論は結実しない。本書の議論を理論的に支えてきたとされるアンリ・マルディネを参照しつつ、リズムを描き直した村上は、リズムと行為の存在論へと突き進む。近い将来、村上の新たな存在論を手にするのが、今から楽しみである。(にしむら・ゆみ=東京都立大学教授・看護学)★むらかみ・やすひこ=大阪大学教授・哲学・現象学。基礎精神病理学・精神分析学博士(パリ第七大学)。著書に『ケアとは何か』など。一九七〇年生。