――看護師の立場から人間の実存といのちを問う――水口義朗 / 文芸評論家週刊読書人2021年11月12日号まとめないACP 整わない現場、予測しきれない死著 者:宮子あずさ出版社:医学書院ISBN13:978-4-260-04719-7 一九八七年に著者は看護師として内科病棟で働き始めた。QOL(quality of life=生活の質)が言挙げされ、濃厚な医療処置、どこまで治療するか、死ぬ前の医療が薄くなっていくプロセス、その結果、救命しないことへの忌避感が薄れていくことに怖さを覚えた。過渡期の内科病棟に九年間勤務している中で、QOL重視の「無理をして生かさない」医療が、急速に主流になる事態を横目に見ながら働いていた。 というのも、九年後に精神科病棟に異動し、濃厚な医療から遠ざかったからだ。二〇〇九年には精神科単科の病院に移り、そこの訪問看護室で働くようになった。 医師と患者との間で、つねに臨床にある医療者、看護師としてやむにやまれぬ切迫した危機意識から本書は書き始められた。つまり、ACPに「生きることを諦めさせる」危険性を感じたからである。延命治療を選ぶのは悪いことかと。 ACP(アドバンス・ケア・プランニング)とは、「人生の最終段階の医療・ケアについて、本人が家族等や医療ケアチームと事前に繰り返し話し合うプロセス」を指す。 著者は、内科病棟、精神科病棟の管理者時代には、緩和ケア病棟を兼務し、三十数年のキャリアの中で、数百人の死亡する患者と関わってきている。 「私はかねがね、ACPが推進される中で、積極的治療を求めず亡くなることばかりが積極的に推進されてほしくない、と考えていた。(……)ひとりの個人に戻れば、私も予後不良の病気とわかった時に、楽に死ねるならがんばらなくてもいい。そんな気持ちもよぎる。しかし、ひとたび看護師として他人の死に関わる際には、その気持ちは封印する。なぜなら、医療者には、人の生き死にを左右する力がある。それだけに、安易に人の死を早めることには、抑制的であるべきだと思うからだ。 私がこれまで見てきた人の死を思い出すにつけても、その気持ちが強くなる。一言で言えば、そんな状態でも、心から死にたい人はいないように見えた」 著者は看護師としての存在理由を探り、「看護師の実存から探る看護の本質と、それを職業として生きる意味」「看護学研究におけるサルトル哲学の可能性」の論文で、看護学の博士学位を受けている。それは、著者に言わせると、「今の私にとって実存とは、生きる上でその人が引き受ける切実さにほかなりません」という覚悟でもある。「「死ぬ」ということについて、私が知っている範囲のこと――ACPを進めるための基礎知識」、「「整わない現場」でのACPをシミュレーションする」。著者が医療者として関わった患者の事例で、その対応がどうであったかを本書はまっとうにつまびらかにしている。死の直前に何が起こるか――亡くなるまでのおよそ数週間を〝臨死期〟というが、看取った医師の徴候リストをしるし、看護師として、臨床した経験、思い、見守り方を冷静、沈着、あたたかく著している。〝最後のけいれんとうめき声への対処〟などは、自らの父母、愛猫の死などを看取った顚末から説明している(八〇歳で亡くなった母、吉武輝子の看取りも報知)。 政府と厚労省が推進してきたACP(人生会議)のポスターを見た瞬間、「シネシネ会議」という言葉が著者の脳内をかけ巡った。このポスターから著者が読み取ったのは、なにがなんでもACPを広めたいという、国のなりふり構わぬ姿勢であり、焦ってことを進めようとしているぞと、いや~な感じがしてならなかった。小松美彦・市野川容孝・堀江宗正編著『〈反延命〉主義の時代』(現代書館)に対して、看護師という立場の医療者が、臨床例から具体的、実践的に呼応した痛切な処方箋ともいえる。 二〇二一年八月二七日刊の『週刊読書人』の小松・市野川・堀江の鼎談「〈反延命〉主義に対抗する思想と実践のために」の中、小松美彦の発言。「八月二日、菅首相は中等症以下のコロナ患者は自宅療養を基本とする方針を示しました。これは事実上の医療崩壊であるばかりか、死ぬに任せる棄民政策が顕わになったということです」 反延命に危惧をおぼえる著者は、「ACPは有効なツールである。ただし、予想通りにならないかもしれない、という留保は常に必要だと強調したい。そして、いかに死が近づいている人であっても、その人が生きようとする気持ちを支えるのが看護であるとの信念を私は忘れたくない」と書く。人間の実存、いのちが問われている。(みずぐち・よしろう=文芸評論家)★みやこ・あずさ=看護師・作家。東京女子医科大学大学院博士後期課程修了。博士(看護学)。著書に『気持ちのいい看護』『看護師が「書く」こと』『看護師という生き方』など。一九六三年生。