――異質な他者が認識している世界を内側から共有する経験――藤田直哉 / 文芸評論家週刊読書人2021年9月3日号みんな水の中著 者:横道誠出版社:医学書院ISBN13:978-4-260-04699-2 ASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)の診断を受けた当事者の書いた本であるが、特異な点は、それが文学研究者でもあり、大学の准教授でもある書き手により「文学」として執筆された点である。著者の横道は発達障害の診断を受けたあとに書物を読み勉強し、ツイッターで「発達界隈」とつながり、自助グループを立ち上げ運営している。そのような当事者による体験的知識と、書物による知識と、様々に引用される文学作品とで織られたのが、本書である。 大きく分けて三部に本書は分かれており、詩・小説に挟まれて、本書の大半を占める論文・エッセイがある。評者は「文学」の観点から本書を論じるようにとの依頼を受けたので、正直に言うが、詩と小説はあまり上手いものとは思えなかった。特に小説は、「彼」という人称を使いながら、ひたすら作者の投影であるかのような人物の説明ばかりが続き、人間と人間のぶつかり合いや変化というドラマが生じておらず、読者を意識した緩急や工夫が乏しいように感じた。文学新人賞の一次選考で本作を担当したら、多分通さないだろう。 とはいえ、いわゆる小説的完成度という意味とは異なった文学性のようなものが、本書には確かにある。それはむしろ、論文・エッセイパートに多い。この場合の文学性とは、異質な他者が感じ・認識している世界を内側から共有する経験、という意味である。様々な文学作品の引用が現れるが、そこにこそ、横道の生きている世界の「感じ」が表現されていた。「私は、他者からなかなか理解されない自分の体験世界を(中略)さまざまな創作物に発見しながら生きてきた」、それらの言及や引用は「私の人生の質感表現なのだ」と、彼自身もあとがきに書いているように。引用によって自己を語るスタイルこそが、むしろ彼の自我や実存の構造の表現のように感じる部分もある。 障害は、ひとりひとり違う現れ方をして、ステレオタイプな理解とは異なると言われる。では、彼の特異性はどのようなものだろうか。彼は言う。自分は、現実と夢の区別が付きにくく、日常では覚醒しにくい。だが、文学と芸術は、精神に明晰さをもたらし、混沌とした宇宙を「晴れ」にしてくれる。だから文学と芸術を愛し、必要とする。日常の中で、「水中」でもがいているように感じている。だから、サイケデリック・ロックなどの「苦しみ」の中でもがき外に出ようとする音楽が好きである。そして自分を追い詰める濁った水ではなく、〈純粋水〉とでも表現されるものを彼は渇望する。宮沢賢治やルソーの作品の、美しい自然を繊細に描写した箇所に、彼はそれを感じる。このような「水」の比喩を使って語られる彼の苦しみと、文学・芸術愛の描写には、一人の生きた人間の深い真情に触れる思いがした。 しかし、これは障害の「症状」なのかどうか、後半まで読んで、分からなくなってきた。彼は、深刻な虐待のサバイバーであることを唐突に告白する。幼い頃、父が帰って来なくなり、母親は子供に肉体的な暴力を行使するカルト宗教に深く入り込んだ。鉄製チェーンで叩いたり、げんこつで顔を殴ったり、逆さ吊りにして風呂の水に長時間漬けたり、真冬に素っ裸で外に出し水をかけることすら横行した宗教だという。彼は今でも毎日何度もフラッシュバックが続いているという。「ASD・ADHD」の当事者の書いた、障害や症状についての本だと思って読んできたが、彼の記述する「解離」や「水の中」の苦しさが常に続く経験は、先天的な脳神経の障害だけに由来するわけではないと感じさせられる。 要するに、本書は障害を持つ当事者が、経験を元に、様々な医学的知見や当事者との交流、先行する文学作品などを手掛かりに、自分自身を探究し、理解しようとしている作品なのである。苦しみの中でもがきながら、なんとか自分を理解しようと努力し、自分を救おうと様々な文学や芸術を求めてきた人生の、手探りの記録だと言ってもいい。だから、作品の構造は、当然異形になるのだが、それもまた真剣さの表現だと感じられる。 苦しみに満たされながらも、至福の時間、晴れ晴れとした瞬間を求めており、時々それが顕現する。そのような、生きるための、実存的な真剣さの軌跡であるからこそ、本書が胸を打つのであり、文学的な感動のようなものが確かにあるように、評者は感じた。(ふじた・なおや=文芸評論家)★よこみち・まこと=京都府立大学文学部准教授・ドイツ文学・ヨーロッパ思想・比較文化。共著書に『はじまりが見える世界の神話』『神話と昔話・その他』など。一九七九年生。