――魂を共振させる文学的感動――藤田直哉 / 批評家週刊読書人2021年6月18日号まとまらない言葉を生きる著 者:荒井裕樹出版社:柏書房ISBN13:978-4-7601-5349-7 SNSをやっていると、あまりにも気が塞ぐことがある。たとえば、新型コロナウイルスによる医療危機において、老人は生産性が少ないから社会的資源を回さなくてもいいのだというトリアージの議論が起こることがある。あるいは、原発は安全か危険か、必要か不要かなどの社会的なトピックでも、単純かつ性急な言葉の応酬が目立つ。あまりにも単純化されたイデオロギーの言葉での対立の状況に巻き込まれ、旗色を鮮明にすることを迫られると、それだけで敗北感と徒労感を覚えてしまう。 そんなに人間や社会、世界は単純だろうか。たとえば、女性差別に憤りつつも、フェミニズム運動が孕んだ欺瞞や腐敗を問題にせざるを得ないと思うときもある。「敵味方」の陣営をはっきりさせろと圧を掛けられると、「どちらでもないのだ」と口ごもってしまう。それを丁寧に言おうとすると、字数が少なく、まどろっこしく言い訳していると見做されてしまう。 「いまの社会では、『短くてわかりやすいフレーズ』に収まらないものは、そもそも『存在していない』と見做されてしまう」と、著者の荒井裕樹は言う。しかし、「短い言葉では説明しにくい言葉の力」、「言葉にまつわって存在する尊くてポジティブな力めいたもの」が、本当はある。本書はその感覚に読者を誘おうとする一冊だ。 荒井は、「被抑圧者の自己表現活動」を専門に研究してきた。その多くは、障害者運動や患者運動に関わる人たちの文章だった。それらの印象的な言葉の断片によって、ある人々、ある集団を、要約するのではなく、「一端を示す」ことで伝えようとする。たとえば、精神科医療の問題を指摘した患者たち、ハンセン病療養所で生活していた方々、ウーマンリブの運動家、脳性マヒの当事者、そして荒井の師匠にして障害者運動家で文筆家で俳人の花田春兆。 そこにあるのは、通俗的なイメージとは違う言葉だ。単純に「かわいそう」「悲惨」というだけではない。勇敢さも、崇高さも、ユーモアも、愛も哀しみも持った一人の人間の姿が垣間見えるし、時には自分よりもよっぽど立派であると思わされもする。過酷な状況であれ、悲惨な状況であれ、それを引き受けて生きて、叫んで、戦って、笑って、喜んで、泣いていった人々の生の襞が、断片の中に体現されている。 それは私たちの心を打つ。文学的感動がある。自分とは異なる身体、異なる状況を生きた者の内側と、自分自身の魂が共振する。文学や芸術特有の力が確かに働くのだ。 荒井自身も、彼らの言葉に救われたと率直に記している。「冷たく凝り固まっていた障害者像」を「ぶっ飛んでいてムチャクチャ」な人々が解きほぐした。それは、「こうあるべき」と思いこみやすく、自分を縛りがちであった荒井自身を和らげるものだったという。 様々な差別問題が公的な問題になり、当事者性を軸にした「アイデンティティ政治」が、SNSを中心として展開する時代になった。不公正や不正がなくなっていくのはいいことである。しかし、それはある「こわばり」を社会や人々に齎す副作用を伴うことがある。人間や社会が本来持っていた優しさ、緩さ、豊かさ、過剰さなどを、忘れやすくさせてしまうのだ。被抑圧者であり、闘争の先駆者たちの生から迸った本書の言葉たちは、ぼくに深い反省を促した。ぼく自身が励まされ、勇気づけられ、複雑なユーモアの感情を味わい、一種の救いを、本書から得た。(ふじた・なおや=批評家)★あらい・ゆうき=二松學舍大学文学部准教授・障害者文化論・日本近現代文学。著書に『隔離の文学』『障害と文学』『生きていく絵』『障害者差別を問いなおす』、『車椅子の横に立つ人』など。一九八〇年生。