川口好美 / 文芸批評週刊読書人2021年11月12日号ジャパニメーションの成熟と喪失 宮崎駿とその子どもたち著 者:杉田俊介出版社:大月書店ISBN13:978-4-272-61241-3 上野千鶴子は名著『女ぎらい ニッポンのミソジニー』の末尾で、「「ポスト男性運動」的な状況」を「統一的に論じうる男性性の理論が不可欠なのではないか」という杉田俊介による問題提起を取り上げて述べていた。そのとおりだ、フェミニズムは「自己嫌悪」との闘いをとおして自分自身との和解の道を見出してきた、それが男にできないわけではなかろう、「そしてその道を示すのは、もはや女の役割ではない」と。それから十年以上の月日が流れ、杉田は『マジョリティ男性~』にこう記している。男たちは自分たちのことを自分たちで考えるべきだということ、それが「メンズリブの最低限の尊厳」である、「男たちは他者から「呼びかけられている」、それだけですでに十分な幸運であり、それがすでに「ゆるされている」ということなのです」。これが「他者」=女性やマイノリティにケアを期待するマジョリティ男性の甘えた心根のあらわれではなく、それを突き放す冷厳な言葉であることは明らかである。ただ他者が他者としてそこに在るということ。他者と自己のあいだに差異があり、力の非対称が存在しつづけているということ。このことを繰り返し学びながら――しかもその際に参照するのが他者=フェミニズムの試行錯誤の蓄積であるほかないという圧倒的な〝ねじれ〟を前にして失語しながら――自分の特権性を剝ぎ取っていかなければならないということ。そのような実践だけが男の「尊厳」、「幸運」のほんとうにほんとうの支えになりうるということ。 杉田の仕事から受け取ったもの、共に学んできたと信じる事柄について自分なりの言い方でもう少し詳しく書いてみたい。男が女になにも求めず、しかし女がそこに在るという事実に根差しながら「自己嫌悪」と闘い、自己との和解を探るとはどういうことか。男は、女が見ているなにかについてなにも知らず、それを見ることは不可能だが、女がなにかを見ていることを、見てきたことを、見ようとしつづけてきたことを認知し、そのことに正しく震撼することならできるかもしれない。その上で、オソレトオノノキの感覚をけして手放さず、ミソジニストたちが紡いできた暴力の歴史(history)を、その帰結である現在を、容赦なく自己批判し未来に向けて改革しなければならない。絶対的非対称性の視野に踏みとどまりながら自己理解を試行錯誤し、ミソジニスト(human)ならざる人間主体へと変容しつづけなければならない。 いかにも高尚で難解なハナシだと思われるかもしれない。じじつ存在論的な位相で考えるべき問題ではあるのだが、とはいえ、些細でみすぼらしい不安、恥ずかしさや怒り、恐怖といった日常的な感情を横に置いて理解することにはなんの意味もない。そうしてだからこそ、ラディカルな自己変容に「まっとう」(『マジョリティ男性~』の鍵語だ)に向き合う者の歩みは、ジグザグな、途切れがちなものであるほかないはずなのだ。未だ途上にある闘いと和解の道、その不器用な軌跡を辿り直した上で、状況にたいして今言えること、これだけは言うべきと思うことをできるだけ率直なコトバで説き明かそうとした〝大人〟の中仕切りの仕事。二冊の本はそのようなものとしてわたしの目の前にある。 ジグザグに、ということが大事なのだろう。『ジャパニメーションの成熟と喪失』の第一部に収められた『もののけ姫』論(雑誌発表は二〇一六年)の冒頭と、巻末の「おわりに」には、ある「個人的な背景」が銘記されている。――二〇一四年に刊行した『宮崎駿論』はいくつかの批判を受けた。それは「ラディカルな何かを渇望してしまう杉田の欲望を静かに諫める」ものであり、また「「大人」としての「責任」」をめぐる真剣な問いを突きつけるものだった。それ以来「今までの自分は何かを微妙に、致命的に間違ってきたのかもしれない」という思いにふとした瞬間にとらわれるようになり、「もう一度宮崎駿について何かを書きたい、むしろ書かねばならない、しかも、わたしの人生の「折り返し点」となるような書きざまで」という気持ちが徐々に大きくなった。その結果としてこの文章がある(『もののけ姫』論)。――二〇一七年刊行の『戦争と虚構』では、現代日本のアニメ作家たちを論じるなかで、とりわけ最終局面の押井守論において、人類の絶滅を享楽する「快楽主義的なニヒリズム」に陥ってしまった。「こうした悲観的な結論しかありえない、と当時は感じていたのである」。しかし刊行後に襲われた心身の衰弱状態への向き合いのなかで、「あの結論は「違う」」という違和感が大きくなり、一度引き返して「二〇一六年の『もののけ姫』論、『風立ちぬ』論の時点に立ち戻るべきだ、とおのずと感じるようになった」(「おわりに」)。 どうだろう、『宮崎駿論』にあったラディカルな崩壊への渇望にたいする厳しい批判と内省を経てあらたに『もののけ姫』論を書いたにもかかわらず、そのすぐ後にニヒリスティックな絶滅への意志が露出した文章を発表し、しかしそれではやはりだめだと身体レベルで思い知らされてまたもや以前の論考に立ち返り受け取り直さざるをえなくなった……こんな無様なジグザグが正直に書き止められているのだ。正直にわたしも言うが、わたしが好きなのは『宮崎駿論』や『戦争と虚構』の押井守論の杉田だった。それは文芸批評の一つの到達を示すものだと感じていた。だとすれば、崩壊を待ち望む姿勢にこそ真の批評性が宿るのだとわたしは思いなしてきたのだろうか。そのような危うい欲望において、文が最深度の緊張をつかむということ、つかまされてしまうということ。そういう感覚にこそわたしの、あるいは〝男もすなる批評といふもの〟の致命的な死角があったのかもしれない。『もののけ姫』論中、短篇アニメーション作品「On Your Mark」に言及したくだりに宮崎自身の印象的な言葉が紹介されている。「ただ、状況に全面降伏しないで、自分の希望、ここだけは誰にも触らせないぞというものを持っているとしたら、それを手放さなければならないのなら、誰の手にも届かないところに放してしまおうという」。たんにすべてが破壊し尽くされればと願うのではない。カフカがノートに記した――到来の日、最後の日より一日遅れで、もはや必要なくなったときにやってくるという〈救世主〉。そこにぎりぎりの「希望」を託したい。そう願わずにはいられないのだ。〝大人〟は、そんな「希望」を安易に肯定すべきでもこれみよがしに否定すべきでもない。どちらも無責任だ。ただ、独りきりで静かに、そっと、「誰の手にも届かないところに放してしま」うべきなのだ。 たぶんそのときからだ、わたしが、「われわれの呆れかえった共同事業」(室井光広『エセ物語』)の星座にようやく連なりはじめるのは。(かわぐち・よしみ=文芸批評)★すぎた・しゅんすけ=批評家。『対抗言論』編集委員。著書に『フリーターにとって「自由」とは何か』『非モテの品格』『長渕剛論』など。一九七五年生。