――入門水準にとどまらない最先端の研究成果――塚本恭章 / 愛知大学教員・経済学博士・社会経済学週刊読書人2020年4月10日号(3335号)経済学のパラレルワールド 入門・異端派総合アプローチ著 者:岡本哲史出版社:新評論ISBN13:978-4-7948-1140-0五〇〇頁をこえる大著だが、編者があらかじめ指摘しているように、本書はどの章から読み進めてもよい柔軟性があり、また講義テキスト用に編成されたものであることから各章の分量もコンパクト。主流派以外の異端派学説に知的関心をもつ読者にとても親切で読み応えがある。周到な専門用語の解説と各章末尾の読書案内も有益だ。 現在の経済学をめぐる大学教育のカリキュラムはかなり画一化されてきている。ミクロ、マクロ(入門、中級そして上級と区分される)、計量・統計などの理論科目がコアとなっているが、ここでの大きな問題は、主流派としての新古典派経済学のみが教え込まれ、それ以外の異端派の諸学説(たとえば本書で概説されているマルクス派経済学、ポスト・ケインジアン経済学、レギュラシオン学派、ヴェブレンとコモンズの制度派経済学、ハーシュマン学説やポランニーの経済人類学など)が意識的に「排除」されているということであろう。経済学説史や社会思想(史)などの分野もいまや必須科目から疎遠になってきている。 主流派経済学は理論上の欠陥を多く抱えているが、総じて学者集団のマジョリティが主流派理論(の正しさへの信念とパラダイム)を支持しているという理由でそうした教育内容・手法が正当化され、現実をよりよく理解する、ないしはよりよく説明できる異端派学説のもつ豊かな知見と洞察が顧みられることはほとんどない。本書は、社会科学としての経済学が本来もつ多様性を復権すべく、各分野の代表的研究者が最先端の研究成果をきわめて明快に解説した作品であり、その学術精神は高く評価されてよい。 ことに塩沢由典氏による「異端派貿易理論の最前線」や森岡真史氏の「進化経済学の可能性」を論じた各章などを読むと、主流派経済学と格闘し、それに代替しうる理論体系を打ち出す営みがいかに長期に及びまた困難なものであるのかがよくわかるだろう。古典派の「生産の経済学」から新古典派の「交換の経済学」への転換という点にあらためて着眼する塩沢氏は、いわゆる一八七〇年代の経済学における「限界革命」という名称を「新古典派革命」と呼び直し、そのうえで「生産費価値説の立場から国際貿易をみなおす」現代古典派の貿易理論の開拓に積極的に挑んできた。つまり新古典派経済学の問題点(均衡論的アプローチや方法論的個人主義、経済主体の超合理性や単線的で均質的時間概念の想定など)をただ指摘し批判するだけでは十分に説得的でない。批判にとどまらない代替理論の構築をより推進していくことこそが異端派理論のポテンシャルとしてとくに重要かつ必要であり、逆にいえば、それだけ主流派経済学の理論体系の影響力が強固で強大なのだ。 とはいえ、「新古典派」以外のすべてを「異端派」と区分するにせよ(本書3頁の図表0)、異端派学説そのものがきわめて多彩・多様であり、それらを体系化しうる唯一の経済理論を構築することはできないだろう。新古典派批判(の内容)は大筋で合致していても、批判の先にある方向性と着地点は異端派学説内で一括しえない。新古典派と長らく理論上の対抗関係にあったマルクス経済学の分岐発展(応用系、人文系そして数理系マルクス経済学の三つに本書は区分している)とその効用も実に多面的である。 たとえば異端派学説には「貨幣」についての豊かな学問的蓄積がある。貨幣ヴェール観(貨幣の中立性)とセイ法則を否定し、「貨幣」的市場経済論を確立したケインズ自身のマクロ経済学は、「自然」失業率仮説や「実物」的景気循環理論を柱とする新古典派のマクロ経済学とは根本的に異なるものである。ケインズが重視した貨幣賃金の下方硬直性(価格の粘着性)による労働市場の不完全性は、長期的には価格の伸縮性によって解消され市場均衡が実現されるとみなすならば、新古典派を特殊理論として含む「一般理論」を構築しようとしたケインズの理論こそがむしろ新古典派の特殊理論として包摂されてしまう。その側面からみても、「規制されない剥き出しの価格調整社会というのは、本当は怖い不安社会なのです」という岡本氏の重要な指摘は、労働市場における貨幣賃金の硬直性といった非効率性をうむ不純物の存在によって現実の資本主義経済はヴィクセル的不均衡累積過程を回避し、ある程度の安定性を保持しうることを体系的に論証した、岩井克人氏の不均衡動学理論のコアと内容的に響き合っているといえよう。それゆえ、ケインズの経済学の〈革命性〉と現代における意義をより明確化する一連の作業は今なお欠かせないのだ。 編者のひとりの岡本哲史氏がいう、序章の最後にある「経済学における異端のすすめ」を提起するからといって、主流派の新古典派経済学を学ぶ必要はないというわけではむろんない。むしろ主流派理論(そこに含意されているイデオロギーとあわせ)を正確かつ批判的に理解することではじめて異端派理論の魅力と輝きに通じうる。表題に込められた「パラレルワールド」とはまさにこのようなスタンスを鮮烈に表明するものにほかならない。そして氏のいう、「経済学は生まれながらにして、経済学者の実存を背負った学問」であることもまた明確に自覚せねばならない。 本書全体を貫くのは、主流派経済学とは異なる異端派理論を排除しないという〈寛容な精神〉だが、くわえて新自由主義イデオロギーへの根底的な批判があることを強調しておきたい。人間社会を基底から支えうる「自由」という価値を守るために、実は自由放任主義や新自由主義との決別が必要である。現在の新古典派経済学は概して新自由主義的ではないが、それは新自由主義イデオロギーに理論的基礎を与えるものとして機能してきた。二一世紀の人類は新自由主義(的資本主義)に代替する新たな経済思想と社会経済システムの構築が強く求められている。第四次産業革命の進展やAIなどテクノロジーの質的変容に伴う多面的な格差再拡大と対峙すべく「社会的課題解決型イノベーション」や各章が示唆する「共生経済」(内橋克人氏の提唱した概念であり、宇沢弘文氏の社会的共通資本の理論とも連動し合う)のありかたをさらに探究することもそのひとつだろう。そして過去の思想の歴史や異端派学説を広く深く学ぶ別の意義も次の点にある。つまり「単一の学派しか知らぬことの危険性」とそれが帰結する未来への視野狭窄とヴィジョン不在という危機の打開だ。新たな時代にはリアリティに富む新たなヴィジョンが欠かせないのだから。 なお本書は、副題にある「異端派総合」という名称の発案者である故・佐野誠教授への追悼作として企画された経緯がある(佐野氏がとくにラテンアメリカ研究を専門としていたこともあり、開発経済やフェアトレード、地域研究をめぐる近年の研究動向の概説にも本書は多くの紙幅を割いている)。佐野先生への編者らの熱き想い、そして氏の学問精神を誠実に引き継がねばならないという高き志に評者は強く心打たれた。再録された佐野先生と内橋克人氏との対談、そして内橋氏が本書に寄せた付言「佐野経済学の可能性」は経済学を学ぶ若き学生諸君にぜひ読んでほしい。(つかもと・やすあき=愛知大学教員・経済学博士・社会経済学)★おかもと・てつし=九州産業大学経済学部教授・ラテンアメリカ経済論(チリ経済)・開発経済学・国際経済学。著書に『衰退のレギュラシオン』など。★こいけ・よういち=立命館大学社会システム研究所客員研究員・経済開発論・地域研究(ラテンアメリカ)。著書に『社会自由主義国家』など。