――限りない「花田愛」で多くの研究本をまとめあげた有用な一冊――白石純太郎 / ライター・評論家週刊読書人2021年1月8日号わが花田清輝 生涯を賭けて、ただ一つの歌を―。上巻(戦前篇)著 者:鳥居哲男出版社:開山堂出版ISBN13:978-4-906331-55-0 花田清輝とは何者だったのだろうか。常に論争を好む批評家にして小説家。劇作家でもあり、岡本太郎らとともに行動したアヴァンギャルド芸術の探求者、安部公房をはじめとした戦後派の小説家を文壇に送り出した多くの文学雑誌の編集委員……。この花田清輝という人間にとって、文学の原体験とはなんだったのか。多くの論争の中で彼を動かしたものはなんだったのか。この異能の人がどのような生を歩んできたのかは、愛読者ならばなんとしてでも知りたい点である。しかし花田は常に自身のこととなると煙に巻いてしまう。彼ほど、「定義される」ことを嫌った文学者も珍しいだろう。フランス象徴主義を代表する人造人間に関する小説『未来のイブ』の著者である、オーギュスト・リラダンの「生活? そんなものは、召使が代わりにやってくれる」という言葉を文字通り信条にした花田は、実生活に重きを置かず、自身の生活も明かさなかった。まるで書かれたものの中に自己を隠してしまうような韜晦する文学者だった。 本書は花田エピゴーネンを自称する著者が、自身の花田への愛を惜しみなく披露しながら、彼の生涯を、そのプライバシーに至るまでつまびらかにしたものである。花田清輝に心底惚れ込んだ人間による花田の記録といってもいい。よって著者自身の「花田清輝体験」が花田の饒舌体とも呼べる文体で、模倣しながら描かれている。底本となっているのは花田が寄稿していた「映画芸術」誌の編集長、小川徹の『花田清輝の生涯』(一九七八年・思想の科学社)と、花田によって見出されたプロレタリア詩人、関根弘による『花田清輝二十世紀の孤独者』(一九八七年・リブロポート)だ。本書はこの二冊に加えて、別冊「新評」誌の花田清輝特集、「花田清輝の世界」を下敷きにして花田の幼少期から、花田の歩んできた道をまとめている。どの本も絶版であるため、再び花田の生涯がまとまってわかる本が編まれたという点で本書の持つ意義は大きい。 改めて振り返らなければいけないことは、一九四五年を基準に上下巻に分けられた本書の上巻と下巻の冒頭に至るまでの長きにわたり、花田がさまざまな雑誌の編集者や文学・芸術運動のオーガナイザーとして活躍していたという事実だ。花田の批評活動は、常に編集者的センスによって貫かれている。例えばある文学者について語るときでも、まったく想像もできない映画作品や哲学を媒介にして一冊の雑誌のような、あらゆるものがごった煮となった批評文を書き上げてしまう。コラージュ的とも言える花田の批評文が持つ多面性は、この長きにわたる編集者経験によるものであったということが本書によって再確認させられる。 編集者的性格こそが花田の基本的な立ち位置だとすれば、数多くの論争も「対立する思考の編集」という側面を持って読むことができる。その最たるものが日本文学史の中でもとりわけ名高い「花田・吉本論争」だろう。花田清輝と吉本隆明のこの論争の結果は花田が負けたということになっている。しかし著者は別の見方を示す。ここで下敷きとなるのは好村冨士彦の『真昼の決闘 花田清輝・吉本隆明論争』(一九八六年・晶文社)である。若きホープであった吉本に論争を仕掛けた花田は、意地悪く相手が挑発に乗るまで攻め続けた。だが吉本が「戦争責任」ということを持ち出し、花田を「ファシスト」と呼んだ段階になると今度は「敢えて」負ける形をとった、と著者は好村の論を評している。 極めて論争を好んだ花田は論争自体を一つの表現であると認識していた。論争を媒介にして新しい文学や視聴覚文化の可能性を探ることこそ、花田の論法だ。であるから彼の論争は、勝ち負けという対立項から逃れ出る生産的なパフォーマンスとなる。しかしファシストなどという、あたかも鬼の首を取ったかのような大文字の言葉を論敵が使い出した瞬間に議論は成立し得なくなる。花田が敢えて議論のラウンドから撤退したのは、パフォーマンスとしての論争が編集者的な眼から見て、意味のあるものではなくなったと判断したからであろう。 花田の鋭利な知性は、常に批判と論争を呼んだ。それはあたかも批判の中で浮き上がるものこそ自分の人生であると言わんばかりの態度であった。著者はそのような花田をアウトサイダーと呼び「まさに、あらゆる既成の価値観の外側に立って、常識に挑戦し、本物の価値観を創造」したと評価する。独特な知性で時代を切り拓いた花田清輝のバイオグラフィー本としてだけでなく、本書は限りない「花田愛」を持って多くの花田清輝研究本をまとめあげた有用な一冊である。(しらいし・じゅんたろう=ライター・評論家)★とりい・てつお=フリーエディター・ライター。同人誌「裸木」主宰。一九三七年生。