政治家と哲学者と宗教家、それぞれの相貌 市田良彦 / 神戸大学教授・フランス現代思想週刊読書人2022年1月14日号 世界の夜 非時間性をめぐる哲学的断章著 者:布施哲出版社:航思社ISBN13:978-4-906738-23-6 実に不思議な風景だ。シュンペーターとラクラウとシュトラウスが同列に並んでいる。シリコンバレーとウォール街に今もなお信奉者を持っていそうな「イノベーション」の経済学者と、イギリスに亡命を余儀なくされた南米出身の「ポスト・マルクス主義」の理論家と、「ならず者国家」など潰してしまえと半ば公言する「新保守主義者(ネオコン)」たちの思想的バックボーンとされた政治哲学者が、一緒に論じられている。そればかりか、マルクスが罵倒した一九世紀のルンペン・プロレタリアートが、三人を結び合わせている。遠目にはとても関係を持つように見えない者たちを思想的三角形にする重心の位置に、「屑、ごみ、かす」どもが座っている。落ちこぼれ、排除され、裏切り者となった輩? そういう位置づけであったなら、本書はある意味、私たちには見慣れた風景を現出していたろう。フーコーが古典主義時代の発端に見出した「一般施療院」のそれである。こそ泥も住所不定の徘徊者も狂人も一緒に閉じ込める「排除」の操作により、ようやく自立した近代的「理性」の誕生物語である。 しかし布施の「屑、ごみ、かす」はまったく排除されていない。布施はシュンペーターの「イノベーター」と「アントレプレナー(企業家=起業家)」こそ、ルンプロの後継者だと読み取る。資本主義的成長の駆動力をなしているのは、その資本主義のまっとうな運行を裏切る素性怪しげな者たちである、と。「屑、ごみ、かす」を一掃しようとすれば、資本主義は社会主義になってしまう、と。布施の目に映ったシュンペーター的資本主義はけっして健全、健康、理性的になることができない、いや、そもそもなろうともしていない。実際、私たちもよく知っているではないか。金融業は「清潔」なのか? 「やくざ」業界なのか? 両方であるからこその最先端であろう。布施の目に映ったラクラウのポスト・マルクス主義は、階級脱落分子を傭兵かつ尖兵とするポピュリズムが過渡期特有の一過性の現象ではなく、民主主義の駆動力そのものであることを論証している。民主主義は中心に空虚な理念を抱えているのではなく、その破壊力と構成力がつねに表裏一体であるから存続しているのだ、と。これも実は私たちがよく知っているはずのことだろう。独裁者は民主主義の中から生まれ、民主主義によって倒される。いずれも有象無象を糾合しながら。 シュトラウスは一見したところ「屑、ごみ、かす」とは無縁の人である。社会の底辺など一顧だにせず、共産主義を毛嫌いし、大学の中でエリート学者を育てることだけに(見える)生涯を献げた敬虔なユダヤ教徒である。その彼が、本書にあっては「屑、ごみ、かす」の排除されない空間をもっとも近くから眺めている。布施が浮かび上がらせるシュトラウスの視界の中では、政治と哲学と宗教は徹底的に異質である。どれも他を「基礎付ける」ようなことをしない。「徳」と「真」と「信」はけっして交わらずに並行し、それぞれの上方の彼方を睨んでいる。その無関係さと孤立具合により、三者はそれぞれの本性を保つのである。原子論的世界に似ているけれども、三者はクリナメン(偏り)さえ起こさず、斥力だけによって存在している。政治家と哲学者と宗教家は本質的に、つまり自らの大義に忠実であろうとすればするほど、社会の中では「狂人」に近づくのだ。僭主ヒエロン(レーニンと言い換えてもいい)然り、ソクラテス然り、モーゼ然り。彼らは社会にとっては「屑、ごみ、かす」と変わらない。しかし社会は彼らをいっとき排除しても、政治と哲学と宗教を欠いた社会などどのみちありえないと思い知ってきた。彼らの大義に今なお公然と頼っている。自らの教えの核心を秘教に準えたシュトラウスは、布施にとっては、自分を政治と哲学と宗教における「屑、ごみ、かす」と知っていた人であるだろう。そんなことを公言して大学人でいられるわけがない。 かつて「一般施療院」に閉じ込められた人間たちが、社会の中心に戻ってきている。布施はその様子をまざまざと見せてくれる。「世界の夜」(ハイデッガーからの借辞である)はもうないのかもしれない。だとしても、コントラストの中から浮かび上がるシュンペーター、ラクラウ、シュトラウスそれぞれの相貌は、それぞれへの格好の入門編ともなっているから、布施は正しい。(いちだ ・よしひこ=神戸大学教授・フランス現代思想)★ふせ・さとし=名古屋大学大学院准教授・政治哲学。一九六四年生。