――人間に出会わせ、現実の可能性に身をひらかせる――山田文 / 翻訳者週刊読書人2021年5月7日号グッバイ、コロンバス著 者:フィリップ・ロス出版社:朝日出版社ISBN13:978-4-255-01211-7 作家は真実を語るために噓をつく。現実を掘り起こし、現実の幅を広げるために、想像し、創造して、誇張し、省略する。 きわめて意識的に、高い次元でそれを実行していた作家がフィリップ・ロスだろう。ロスの作品の多くには、作家本人と重なる主人公が登場する。しかしそれらの人物もあくまでフィクションだ。経歴や経験は歪められ、新たな人物が誕生して、別の現実が姿を現す。 一九五九年、ロスが二十七歳のときのデビュー作『グッバイ、コロンバス』もまさにそのような作品である。主人公のニール・クラグマンは、ニューアークで暮らす二十三歳のユダヤ人で、大学卒業後、地元の図書館で働いている。 そのニールが、プールで出会った大学生ブレンダ・パティムキンと恋に落ちる。パティムキン一家は、成功してニューアークから郊外のショート・ヒルズに移住したユダヤ人である。父はたたき上げの商売人、母は保守的な正統派ユダヤ教徒、兄はスポーツマンの好青年。ショート・ヒルズは、「ニューアークより標高が五十五メートルほど高く、天国にぐっと近づいた感じ」の場所だ。 ニールはニューアークとショート・ヒルズを行き来し、またのちにはパティムキン邸に客として滞在して、八月のほぼ一か月をブレンダとともにすごす。ただ、パティムキン一家と食事をしていると、自分が小さくなったような居心地の悪さを覚える。スポーツ、電化製品、冷蔵庫のなかのたくさんの果物。物質的な成功の象徴があふれるその場に彼はなじめない。 他方でニューアークにも確固たる足場があるわけではない。世話になっているおばのユダヤ的な価値観は軽くいなし、図書館での仕事にも強い思い入れはない。 こうしたニールのあいまいな態度は、何にもましてブレンダとの関係において際立っている。ふたりは強くひかれあっているが、確実なのは性的な衝動だけだ。ニールはそれを〝愛〟と結びつけることを空想するが、その試みには不安と違和感がついてまわり、この回路はいつも断たれる。パティムキン家で冷蔵庫の果物を食べ、ブレンダと身体の関係を重ねつつも、「何もかもがうまくいっていないようだった」。そして、プロポーズをしようかというタイミングでブレンダに求めたのは、医者のところで避妊具のペッサリーを手に入れることだった。拒まれると、「どうしてそんなにわがままなの?」「ふざけんな」とブレンダを執拗に責める。 終幕には、こうした主人公の性質をさらに極端なかたちで示すエピソードが置かれる。そしてニールは窓ガラスに映った自分の姿を見て思う。「ぼくのうわべはその内面がどうなっているか伝えることを放棄していた。その姿の奥に何があるかを突き止めに〔……〕あの窓の向こう側へ大急ぎで行けたらいいのに」。 刊行当時、この作品は、ユダヤ人を自己憎悪的に描く作品だとしてユダヤ人コミュニティから大きな批判を受けた。ジェンダー、人種、階級などの視点からも異議申し立てがなされうる作品でもあろう。しかし本作が反発を呼び起こすのは、また多くの人に親しまれ、六十年の歳月を経て新訳で読まれるのも、ロスが小説の手法を駆使してニール・クラグマンというリアルな人間に命を吹きこむことに成功しているからにほかならない。この作品が反発と共感を呼ぶのは、わたしたち自身や他者のなかに存在する覆い隠されがちな、しかしなじみのある人間に出会わせてくれるからだ。ロスは憎たらしいほど巧みにそれをやってのけ、読者の心に揺さぶりをかける。読者は安全を脅かされ、まさにそのことによってより広い現実の可能性に身をひらかされる。小説を知りつくした作家ロスの原点がここにある。(中川五郎訳)(やまた・ふみ=翻訳者)★フィリップ・ロス(一九三三―二〇一八)=米国ニュージャージー州ニューアーク市生まれ。一九五九年、短編五作と中編一作を収めた “Goodbye,Columbus”で全米図書賞受賞。著書は全三十一点。ピューリッツァー賞、マン・ブッカー国際賞を受賞。全米批評家協会賞と全米図書賞は二度ずつ獲得している。