――他者を理解しようとする聖書翻訳者の情熱――峯岸正典 / 曹洞宗ヨーロッパ国際布教総監、宗教間対話研究所所長週刊読書人2021年7月23日号聖書とモンゴル 翻訳文化論の新たな地平へ著 者:芝山豊・滝澤克彦・都馬バイカル・荒井幸康(編)出版社:教文館ISBN13:978-4-7642-7448-8 題名から浮かびあがったのは、青い空、どこまでも続く草原、たくさんの羊たち。そして聖書?日本で出版されているのだから、必ず日本との繫がりもあるはず、そのような期待をもって読み始めた。 モンゴル研究者の芝山豊、滝澤克彦、都馬バイカル、荒井幸康の四氏によって編まれた本書の主題は「非常にマイナーなものである」という「あとがき」の謙遜を超えて、豊かな知的営みを示している。第一部では、作家池澤夏樹氏の論考も交え、モンゴルにおける聖書翻訳が「単なる一地域の文化的営みとして完結したものではなく、歴史的にも構造的にも極めて広がりのある対象」であることが明らかにされる。モンゴルにおけるキリスト教との出会いは元朝以前と非常に古く、欧州とは地続きのモンゴルには、聖書文化を受け入れやすい下地があったことが紹介される。第二部では、近代における翻訳の営みが詳細に紹介され、第三部では、二名のモンゴル人聖書翻訳者、聖書の日本語訳に携わった小高毅、山浦玄嗣両氏、仏典研究者金岡秀郎氏らにより、個々の翻訳者の立場を踏まえ、実際の問題が検討される。第四部は「翻訳文化論」の視点から現代の翻訳理論を参照しつつ、モンゴル語聖書翻訳を通して見えてくる伝道の課題が検討される。巻末には年表、モンゴル語聖書の一覧や写真、多岐にわたる参考文献も紹介されている。 日本とモンゴル文化の違いがはっきりするのは、たとえば、「接吻と香り」の部分である。イエスが捕縛される場面で、日本では「敬意や感謝、あるいは、親愛を表す挨拶としてのキスの習慣も、それを表すことばも」存在しなかったため、明治期「接吻」と訳されていく。一方、モンゴルでは「キスと香りを嗅ぐということは、一連の行為」であり、「乾燥地帯に暮らす牧畜社会では、匂いを嗅ぐことが一般的な挨拶」であるため、日本ほど困難はなく翻訳が進められていったという。 本書冒頭には「翻訳とは本質的に他者を理解しようとする営みである」と示されている。『新約聖書』自体もイエスらの語りが古代ギリシア語に翻訳されたものである。したがって、聖書の「ギリシア語原典」が伝えようとする事柄に遡って、それをどう言語化していくかという姿勢が大切になるはずである。そうした努力の一端を山浦氏の記述から窺い知ることができるような気がする。ただ聖書は典礼に使われる言葉でもある。ありがたさと分かりやすさを両立させることが難しい。経験によれば、漢語の持つ深い意味合いを短い大和言葉に置き換えることは至難の業である。 本書には、それぞれの翻訳者の人生をかけての努力、相互批判、社会の中に定着していくまでの政治による翻弄等、人間の普遍的な営みも表象されている。そこから、聖書に由来する伝道にかけるキリスト者のひたむきな情熱を読み取ることもできよう。 くわえて「『無数の宗教が平等の権利を与えられて共存している、いわゆる多元化社会』において、『キリスト教の絶対性、《キリストのみ》をどう理解し、宣教を推し進めていくべきか』」という立場からの分析も試みられている。どのような角度から本書に向き合っていくかによって、得られる事柄は異なってくるが、その成果はそれぞれに大きいはずである。 モンゴルを理解したい人、聖書や翻訳に関心を持っている人、そして何よりも、多文化共存が目指される世界にあって、異質な他者との共生に関心を持つ人に参考となる書物であろう。(みねぎし・しょうてん=曹洞宗ヨーロッパ国際布教総監、宗教間対話研究所所長)★しばやま・ゆたか=清泉女学院大学教授。★たきざわ・かつひこ=長崎大学教授。一九七五年生。★とば・ばいかる=桜美林大学准教授。中国内モンゴル自治区シリンゴル盟正藍旗生まれ。一九六三年生。★あらい・ゆきやす=北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター共同研究員。一九六九年生。