――ことばによって摑むことのできない曖昧ななにか――山﨑修平 / 詩人・文芸評論家週刊読書人2021年9月17日号妖精DIZZY著 者:野村喜和夫出版社:思潮社ISBN13:978-4-7837-3748-3 奇書だ。 本書は二分冊の詩集であるが、上下巻ということではなく、著者のテクストを「出来るだけプレーンに提示した」一冊と、装幀を担当した山本浩貴+hによる「改行や空白、文字サイズの大小等」を「編集・レイアウト時に」加えた一冊を合わせたものである。つまりテクストを、装幀家によるクリティークのフィルターを通じて、リミックスが施されていると述べれば伝わりやすいだろうか。敢えて分冊にしてまで同一テクストを、「プレーン」な一冊と、装幀家のフィルターを通した一冊にしたことは、著者の野村喜和夫にとって、エクリチュールと同等に、いやそれ以上に、テクストそのものが視覚的な作用をもたらすものでなければならない、という考えがあるのだろう。詩というテクストを詩集にすることを志向するのではなく、自身の創作への方法論のあらわれとして到達したものが詩であり、それを纏めたものを詩集として読者は受容する。装幀やデザイン、すべてが詩。読み手に与えられる情報のすべてが詩。まさに現代のマラルメを彷彿とさせる野村の詩への向き合い方だ。 前作『花冠日乗』では、写真家・朝岡英輔とミュージシャン・小島ケイタニーラブとの合作によってコロナ禍の東京を散策し、「今」を切り取った。詩集ごとに異なるコンセプトを打ち出しつつ、他ジャンルの創作家とのコラボレーションを模索する創作姿勢は、「現代詩」という喩法の難解さによって硬直し、とかく閉ざされた表現領域への風穴をあける試みである。それでは、コラボレーションによってテクストは侵食されているのであろうか。いや、そうではない。本書は、あくまでも「詩集」・・・・・・・・として批評され一定の評価がなされるべきである。 一節を引用し、考察してみよう。「曖昧さをえらびとるということ。野、伸び、はら、はる。文字から脚が出て、いばら、うばら。地の口のように、うようよと。どっちつかずに揺れている語たち」 曖昧さのこと。さらには本書で繰り返されるモティーフである「眩暈」、そして速さのことを、書評を書きながらずっと考えている。詩句によって示されている曖昧さとは、ことばによって摑むことのできない領域にあるなにか。その曖昧であるなにかのことを、書くことによって、わたしたちは規定された曖昧ななにかとする。曖昧なものを曖昧なままにすることは、詩人にはおそらくできない。書くという営為によって、テクストが現出し、意味という強度を帯びた詩句となる。 驟雨に気づき雨傘を取り出すような、なにかを知覚したあとの速さ。感情よりも、書きあらわすよりも速い、瞬間的ななにか。ひかりの瞬きも、ひかりによって知覚した眩暈もまた、書くことによって一つの意味の箱のなかに収められるように規定される。この規定された曖昧ななにかを、著者は自らのものとせず突き放すように他者へ投げかけた。装幀家というもう一人の詩人は、作者の規定したことばを破壊するように解体し、再構成(リミツクス)を施した。レイアウトを再構成したという生易しいものではない、詩人と詩人による合作によって、一冊の詩集を作り上げたのである。そしてこの一冊の奇書の誕生を導いたのは、テクストの強度によるものだ。 本書は、詩とは何か、詩集とはどうあるべきかという問いを投げかけた「詩集」だ。ゆえに、「本書は詩集ではない」という回答がなされたときこそ、「現代詩」が曖昧ななにかへと解体する合図となる。(やまざき・しゅうへい=詩人・文芸評論家)★のむら・きわお=詩人。詩集に『特性のない陽のもとに』(歴程新鋭賞)『風の配分』(高見順賞)『ニューインスピレーション』(現代詩花椿賞)『薄明のサウダージ』(現代詩人賞)、評論に『移動と律動と眩暈と』『萩原朔太郎』(二冊で鮎川信夫賞)など。一九五一年生。