――急速に変化する社会、変化に敏感に反応する作家――鈴江璋子 / 実践女子大学名誉教授・英文学週刊読書人2021年6月25日号ジョイス・キャロル・オーツのアメリカ著 者:吉岡葉子出版社:開文社出版ISBN13:978-4-87571-886-4 現代アメリカ文学を代表する作家、ジョイス・キャロル・オーツの研究書が、初めて出版された。多作で知られるオーツの膨大な作品を読み通し、資料にあたり、一巻に纏めた吉岡葉子氏の健闘に、まず称賛の拍手を送りたい。この待望の書の巻頭を飾るのは、プリンストン大学研究室での美しいオーツのポートレートである。二〇〇三年九月、研究室に招き入れられた著者自身による撮影であり、オーツの著者に対する深い信頼が、理解できる。吉岡氏によると「カメラを覗き込むとそこにあるのは、不安げで、おびえる内面が見える、作家というより一人の女性という印象で、ドキッとした」そうだ。 本書はオーツの文学と現在のアメリカを、歴史と地政に目配りをしつつ論じ、アメリカが急速に変化する社会であること、オーツが変化に敏感に反応する作家であることを強調している。11章にわたって、二〇世紀に出版されたオーツの主著を考究する構成だが、社会の片隅で苦しんでいる人たちのために書くというオーツの姿勢への、著者の共感が通底している。 第1章は、オーツの長編第一作『堕落に打ち震えて』を丁寧に論じる。冒頭、郊外の住宅地に住む十七歳のカレン・ハーズは、父に従って、父の大きな古靴を履いて、春のぬかるみを歩いている。父権主義者のハーズは四度結婚して、妻たちを四人とも亡くした。カレンの母も死んだ。カレンは生きたい。カーレーサーのシャーが出現し、カレンは父の家を出る。 カレンはシャーを〈宿命の人〉と認識しているが、愛を語らず、妊娠も告げない。シャーは絶望し、自殺を決意してレースに臨む。青く晴れた夏空、激しい日差し。身震いした彼はいま、自己と他者を隔てていたベールが引きはがされるのを感じる。今までの放埓な人生は、この瞬間のためにあったのか。彼は直線コースでトップに出、わずかにトラックを外して、車を擁壁に激突させる。カレンはショックで流産し、血を流しながら「シャーが生まれたのは偶然だけれど、死は偶然じゃない。自分のために、自分の死を造ったんだ。立派な男だ!」と叫ぶ。秋にカレンは帰郷した。風花が舞って、身震いする秋。「お前はわしの良い子だ。すべてを許す。愛している」と父は言う。 もとの家に帰るというカレンの〈成長〉はアンチクライマックスだが、彼女はシャーの愛と自分の罪を認めている。著者は「カレンは全体の中の個人として他者と共存できるという意識に到達できている」と評価する。オーツの主要テーマ「父の家を出る娘」「何のために生きるか」や、銃・車・都会などのモチーフが、この第一作に出現している。 その後、『悦楽の園』など、「父の家を出る娘」の主題で多くの作品が書かれた。一九五〇年代以降の作品には、上流家庭の娘たちが外に出て、物質崇拝社会に身を浸し、性的暴行を受けるという型が多いのだが、著者はそこに資本主義経済の繁栄と道徳的堕落、それを享受して来た少女たちの自責と贖罪、さらに「女性のステレオタイプ化された性の呪縛」への挑戦を慧眼に見抜いている。 オーツの代表作『かれら』(全米図書賞受賞)は、一九三〇年代の大恐慌から六七年の暴動までの、デトロイト下層貧民の脱出記である。ロレッタは幼いジュールズとモーリーンを連れてデトロイトに出、再婚相手を手に入れた。モーリーンは短大夜間部教師を誘惑して、その妻子を追い出し、中流家庭の奥様に納まって、母や兄と絶縁する。ジュールズはチャンスを捨てて地道に働き、母に仕送りを続ける。暴動の後、政治団体に加わってカリフォルニアに行く、と別れを告げに来たジュールズを、モーリーンは家に入れない。ジュールズは、でもお前は〈かれら(下層貧民)〉の一員だよ、と指摘する。 第5章『マーヤ――ある人生』では、白人女性にとって脅迫的な黒人男性が姿を現す。激烈な競争を勝ち抜いて、大学の正教授の地位を得たマーヤの個人研究室に、黒人男性掃除夫シルヴェスターが入る。そして彼女の個人トイレに、彼の濃い琥珀色の尿を残していく。マーヤはこれを誰にも訴えられない。彼は自分が〈男性〉という優位なジェンダーにありながら、〈黒人〉という社会的劣位にあるために〈女性〉という劣位の者に奉仕させられるのが嫌なのだ。 第8章『苦いから、私の心臓だからこそ』と第9章『扉を閉ざして』で、白人女性は強くなっている。北部の田舎町の、白人・黒人・ムラトー・ヒルビリーなどの雑居地区で、白人少女アイリスは、黒人少年ジンクスに甘い視線を投げる。著者は「異民族は性的に強く引かれ合う存在であるという隠れた事実が浮かび上がってくる」と指摘する。彼はアイリスのために、殺人も犯した。だが、白人男性と黒人女性とのセックスは問題とされなかったが、黒人男性と白人女性の結びつきはタブーである。二人は「魂の友」として結ばれているのだが、アイリスは富豪の息子と結婚し、ジンクスは志願してヴェトナム戦線に出る。『扉を閉ざして』のキャラは、ティレルの「甘草のような黒く、濃厚」な肌に魅惑される。だが一九一二年当時、黒人男性と白人既婚女性との恋が許されるわけはない。二人は情死を決行、キャラだけが生き残る。 最終章では、主人公のアイルランド系男性が、白人として黒人を蔑視しながら支配層のWASPによる蔑視に悩む。人種・ジェンダー・貧富による差別・被差別は、これからもアメリカの、いや世界の問題である。(すずえ・あきこ=実践女子大学名誉教授・英文学)★よしおか・ようこ=高知大学非常勤講師。著書に『南部女性作家論 ウェルティとマッカラーズ』、訳書に『新しい天、新しい地』(ジョイス・キャロル・オーツ著)など。一九五〇年生。