――自由を求めて社会と対峙する芸術家・知識人の姿――川成洋 / 法政大学名誉教授・英文学・スペイン史週刊読書人2021年12月3日号中欧・東欧文化事典著 者:中欧・東欧文化事典編集委員会(編)出版社:丸善出版ISBN13:978-4-621-30616-1 日本人にとって中欧・東欧諸国は、先達と仰ぐ西欧列強と異なり、馴染の薄い存在であった。それにしても、中欧・東欧諸国は、二〇世紀の激流に翻弄され、幾多の艱難辛苦を舐めざるをえなかった。 ちなみに、第一次大戦の結果、敗北した四大帝国(ドイツ帝国、ハプスブルグ帝国、ロシア帝国、オスマン帝国)が欧州の地図から姿を消した。パリ講和会議において、アメリカ大統領ウィルソンが提唱する「十四ヶ条」に基づいて、旧四大帝国民は民族自決の原則のもとで新国家建国が承認されたが、それには戦勝国の意向が前提であった。戦勝国の英仏は、外交交渉の巧者というべきか、既得権の擁護に固執し、しかもロシア革命の影響とドイツの再軍備の脅威を封じ込むために、その緩衝地帯として次々と新国家を創設した。こうして、政治的にも財政的にも極めて脆弱な国家が誕生することになる。つまり、敗戦国の犠牲の上に怯懦な戦勝国の利益追求が最優先されたのだった。 ヒトラーは、第二次大戦直前から緒戦期に、緩衝地帯の国々を武力制圧するが、一九四一年六月二二日の独ソ戦勃発以降、大戦後期にかけて「反ナチス」を標榜するスターリンは、緩衝諸国において反ファシズム・パルチザンを編制し、ドイツ敗北直後にいち早く覇権を握ってしまった。ことほどさように、寄る辺なき緩衝地帯の国々は、二〇世紀の二人の全体主義者に蹂躙されたのだ。しかも、四五年九月にОSS(戦略事務局)を解散させ、その後二年間の情報機関の致命的な空白期を造った外交音痴のトルーマン大統領を尻目に、スターリンは東欧諸国に恒久的な社会主義政権とソ連の衛星国化の第一歩を踏み出したのだった。 勿論、東欧諸国において国民が希求する独立への動きがあった。スターリンの死去(一九五三)とフルシチョフのスターリン批判(一九五六)により東欧諸国の社会主義政権の動揺を契機に、ポーランドのボスナン暴動、ハンガリー事件、プラハの春などが勃発するが、その都度鎮圧された。しかし、この自由と開放、変革と自立を求める果敢な運動と多大な人的犠牲が歴史に刻印され、一九八九年六月のオーストリアとハンガリーの鉄条鋼の開放を嚆矢とする「東欧革命」が激発したのである。この満を持して広がった東欧革命は、軍事支配からの解放を理念としていたために、暴動、武装蜂起、内乱といった忌まわしい騒動とはほぼ無縁の革命だったといえよう。 本書は、「冷戦開始後四〇年余り続いた社会主義体制に風穴を開けたのは、連帯労働者とともに、「中欧」を自称するハンガリーやチェコの文学者、社会学者などの文化人・知識人の運動であった」と述べている。これは、名論卓説である。東欧の民族自決による国家建設は、彼らが長年密かに培ってきた独自の言語、歴史、宗教、慣習といった民族的な文化回復運動が基盤となっている。 私も、彼らの文化運動がしっかりとナショナリズムに裏打ちされている場面を見聞したことがあった。一九七七年秋、ロンドンのポーランド・ハウスで開かれた二〇世紀英国作家ジョウゼフ・コンラッド学会。参加者の大半はポーランド人のようだった。実は、コンラッド(一八五七~一九二四)も生粋のポーランド人。彼の父アポロはポーランド独立運動の急進的指導者として、一八六二年に捕縛され、親子三人の北シベリア流刑生活が始まる。コンラッドが一二歳で、孤児となり、ポーランドに戻り叔父のもとに身を寄せるが、一七歳で海外に出て、やがてイギリス船の船長となり、九四年、ロンドンに定住し、作家生活を始める。一九二四年五月、勲爵士に叙勲されることになるが、何故か、それを辞退する。この学会後の懇親会は面白かった。コンラッドよりも、アポロに関する話題が多かったからだ。 確かに、これは、在英ポーランド人のナショナリズム運動の一面だが、東欧全体においては、恐らく多種多様のケースがあっただろう。一九一九年の俄か作りの新国家誕生から八九年の「東欧革命」の開始への七〇年間、さまざまな茨の道というべき試行錯誤があったに違いない。だがはっきりしているのは、自分たちの民族的な基底文化というものが民族自決運動に通底しているという事実だ。そのことと本書が、今だ地球上のどこかで自立をめぐって混迷と彷徨を重ねている地域の人びとに何らかのメッセージとなるはずである。(編集委員:羽場久美子(代表)、井口壽乃、大津留厚、桑名映子、田口雅弘、中澤達哉、長與進、三谷惠子、山崎信一)(かわなり・よう=法政大学名誉教授・英文学・スペイン史)