――全て本邦初訳の実験的/独創的な短篇十一選――青木耕平 / 東京都立大学非常勤講師・アメリカ現代文学週刊読書人2020年10月9日号現想と幻実 ル=グウィン短篇選集著 者:アーシュラ・K・ル=グウィン出版社:青土社ISBN13:978-4-7917-7302-2 アーシュラ・K・ル=グウィン。二〇一八年に逝去したこの偉大なるアメリカ人作家は、数え切れないほどの傑作を書き遺した。彼女は優れたフィクションの書き手であり、卓抜したエッセイストでもあり、言語の細部にこだわる詩人・翻訳家でもあった。長大なファンタジーを著し、サイエンス・フィクションの形式を刷新した彼女は、一つのカテゴリーに留まらず、シリアスな文学、絵本、神話等、文芸の領域を軽やかに横断していった。そのどれもが時代や思想と苦闘した結晶であり傑作で、ジャンルとカテゴリーを超えた彼女の著作はさらに言語を超え、海を越え、ここ日本でも広く愛された。邦訳刊行されたル=グウィンの書籍は、今までに優に四〇冊を超える。こんな作家は、なかなかいない。 本書『現想と幻実ル=グウィン短篇選集』は、そんなル=グウィンの最新邦訳書であり、収められた十一の短篇は、その全てが本邦初訳である。まずもってこれが本書最大の価値だ。初めて日本の読者に届けられた十一の短篇は、そのどれもが実験的/独創的なエクリチュールを持ち、どこまでが「現実(リアル)」でどこからが「幻想(アンリアル)」なのか判別できない。たとえば冒頭「ホースキャンプ」、わずか七頁の掌篇であるが、この物語の視点が人間にあるのか馬にあるのか、唯一の正しい解釈がそもそも存在しない。「オレゴン州イーサ」では架空の街が語られるが、読み手が慎重にその街の地図を頭に描いても、その街自体が地図上を移動してしまい全貌が摑めない。八つの掌篇から成る「四時半」は、一見して全てが同一の話であるようでいながら、その実全てが違う話であることが仄めかされる──。このように、一読では到底摑み切れないばかりか独自のコンテクストを持つ短篇ばかりで構成された本書は、単独で読み解くのはかなり難しい。そんな読者を導く、巻末に付された訳者解題が素晴らしい。作家本人の解説や過去著作だけでなく、海外の学術論文まで参照し詳述してくれる充実度である。本書刊行によって、日本語読者がル=グウィンの創作世界により深くアクセスすることが可能となった。そのような意味で、本書はル=グウィン愛読者にとって珠玉の短篇集である。 しかし、ゆえに、本書はル=グウィン未読者が最初に読むのに適しているとは言い難い。訳者解題に明記してあるが、本書は、その底本となった原書『ジ・アンリアル・アンド・ザ・リアル』の全訳ではない。原書底本はル=グウィン本人が選んだ短篇集であり、二〇一六年に増補された決定版に収められた短篇総数は三九篇にのぼる。その中には「オメラスから歩み去る人々」も、「バッファローの娘っ子、晩になったら出ておいで」も、「セグリの事情」も、「名前の掟」も当然収められている。これらこそが作家そして作品世界のエッセンシャルにしてベスト・オブ・ベストであるが、すでに邦訳が存在するため、本書には収録されていない。実験的な作風が大半を占める本書を手に取るのは、まずこれら既訳の存在する傑作群を読んでからでも、決して遅くはない。「未邦訳」という制約ゆえか編者の意図かは分かりかねるが、増補版にて追加された最後の短篇「水甕」(二〇一四年)を除いた十篇が全て一九八五年〜一九九七年に集中しているのも興味深い。一九八五年、人類が死滅した数万年後のカリフォルニアを描いた『オールウェイズ・カミング・ホーム』を上梓したル=グウィンは、一九九八年に『ゲド戦記』をリブートするまでの期間、エコロジカルな作品を立て続けに発表した。経済的存在としての文明化された人間の単眼的視点はもはやなく、自然や動物に同化した複数の視線が本書所収の短篇に散見されるのも合点がいく。二〇二〇年、気候変動による山火事で燃えるカリフォルニアの空。一九八五年、それをすでに幻視していた作家。アーシュラ・K・ル=グウィンが過去に著した未来の価値を、私たちは現在やっと知り始める。(大久保ゆう・小磯洋光・中村仁美訳)(あおき・こうへい=東京都立大学非常勤講師・アメリカ現代文学)★アーシュラ・K・ル=グウィン(一九二九~二〇一八)=カリフォルニア州バークレー生れの作家。SF・ファンタジー小説を中心に詩や評論、エッセイに至るまで、生涯にわたり多様で旺盛な創作活動を続けた。代表作にヒューゴー賞とネビュラ賞の二冠に輝いた『闇の左手』、「ゲド戦記」シリーズ、「空飛び猫」シリーズなど。