――隣の国からの問いかけ吉良佳奈江 / 翻訳家・韓国語講師週刊読書人2020年7月10日号(3347号)わたしに無害なひと著 者:チェ・ウニョン出版社:亜紀書房ISBN13:978-4-7505-1641-7『わたしに無害なひと』はチェ・ウニョンの二冊目の短編小説集である。収録されている七つの短・中編は人生の早い段階で傷つき、痛みを抱えた人の姿を描いている。 デビュー作の短編集『ショウコの微笑』(クオン、二〇一八)は希望の物語だった。人生のどん底であえいでいるときに、誰かひとり大事に思ってくれる人がいれば、大事に思う相手がいれば、人は希望を持つことができる。しかし、暗闇の中でお互いに求めあい、照らしあう光であったとしても、自分が誰かの光であることはその時には気づけない。 冒頭の短編「あの夏」はその流れを汲み、高校で出会ったイギョンとスイの女同士の恋愛を描いている。怪我によってサッカー選手になる夢をあきらめ、実家の援助もなく、ひとりで生きて行こうとする不器用なスイにとって自分の存在は何だったのか。物語の中では長い時間が経過して大人となった登場人物たちが答え合わせのように振り返ることで、そのもどかしさ、取り返しのつかなさがくっきりと浮かび上がる。自分は希望を与えることも、希望を奪うこともできたのだ。 「告白」の話者は三十代の修道士だ。彼はかつての恋人ミジュから高校時代のある出来事を聞かされる。プリクラの中で笑っているミジュとジュナ、そしてジナ。ジナは十七歳の誕生日に自分がレズビアンであることを二人に打ち明ける。ミジュが「あなたは私にとって無害な人なのよ」と思っていた親友が、違って見える瞬間である。ミジュとジュナはその場でどんな言葉をかけることが、どんな表情をすることができただろうか。傷つけてしまった後悔もまた、痛みとしていつまでも残る。 韓国社会はセクシャルマイノリティーに不寛容だ。男は男らしく、女は女らしくあれとする社会規範はそこからはみ出す者を、男らしく生きられない男性もまた抑圧する。いくつかの作品で繰り返される暴力的な父親と男子を産めと迫る口さがない親戚の女たちの描写はやや型にはまっているきらいがあるが、実際に私たちは二〇二〇年の現在になってもこの家父長制の呪いから逃げられずにいる。 例えば「六〇一、六〇二」では、ジュヨンの隣の部屋に住む同級生ヒョジンの一家は儒教的な価値観が強く残る慶尚道の出身で、毎月のように先祖を祀る祭祀を行っている。こう書くとやはり外国の話で私たちとは関係ないと思うかもしれない。しかし、狭い台所で女たちが汗をかいて食事の支度をし、黒いスーツ姿の男たちが扇風機で涼む姿は私たちもよく知っている。小学生のヒョジンは五つ上の兄から執拗な暴力を受け続けていて、ジュヨンはそれを止められない自分に無力感を感じ、止めようとしない大人たちが理解できない。数年後、親戚に責められて仕事を辞めた母親が弟を産むと、ジュヨンはようやくヒョジンが殴られていた理由が、女だからという一点でしかないことに気づく。だとしたら、自分もまた同じ理由で抑圧される側ではないか。 チェ・ウニョンの巧みさは、一番傷ついた人ではなくその隣にいる人間の視線で物語ることだ。読者は差別され暴力を振るわれ傷ついているのが自分でなくてよかったと安心しながら読み始め、いつしか自分もまた当事者であることに、その暴力と自分の存在が地続きであることに気づく。弱者を踏みつけるこの社会で、私たちは誰かを踏みつけていないか。この本を読み終えて誰もが自問するだろう。わたしは無害なひとだろうか、と。(古川綾子訳)(きら・かなえ=翻訳家・韓国語講師) ★チェ・ウニョン=京畿道光明生まれ。第五回・八回若い作家賞、第八回ホ・ギュン文学作家賞、第二十四回キム・ジュンソン文学賞、第五十一回韓国日報文学賞受賞。著書に『ショウコの微笑』など。一九八四年生。