藤津亮太 / アニメ評論家週刊読書人2022年3月18日号 攻殻機動隊論著 者:藤田直哉出版社:作品社ISBN13:978-4-86182-881-2 『シン・ゴジラ論』『シン・エヴァンゲリオン論』とエンターテインメントを題材に思考を深めてきた著者の最新作である。この三冊は一貫して、フィクションを通じて、戦後/震災後という時代に生きる〝私たち〞の実存を捉えることをテーマにしている。本書の場合は、約三〇年に及ぶ『攻殻機動隊』シリーズとネット社会の相互作用を通じて、時代のあり方から〝私たち〞へと迫っていく。 『攻殻機動隊』シリーズは、全身義体(サイボーグ)の草薙素子がリーダーを務める公安九課の活躍を描くサイバーパンクSFだ。士郎正宗による原作漫画は一九八九年発表。その後アニメ映画化され、現在に至るまでさまざまなアニメ作品が制作されている。海外にもファンが多く、さまざまなクリエイターにも影響を与えている。著者はそんな作品を「コンピューター・ネット時代に突入した日本で、情報社会をどう受け止めるか、そして、どう生きるべきかを観客たちと共に模索し作り上げた作品なのだと見做すべきである」と位置づけ、思考の対象とした。 本書の幹となるのは映画『G H O S T I N T H ESHELL /攻殻機動隊』(押井守監督)、『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX』シリーズ(神山健治監督)、『攻殻機動隊ARISE』シリーズ(黄瀬和哉総監督)の三作品だ。 映画『GHOST INTHE SHELL /攻殻機動隊』が公開された一九九五年は「ネットの齎す新しい世界への期待が社会的に抱かれていたと同時に、この現実を直視したくないと思う人々の増えていた年でもあった。そして、社会全体のリアリティのあり方の大きな変動の起こった年でもあった」と記される時代だった。これが二〇〇二年に始まった『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX』( 略称『SAC』)シリーズでは、次のように変化する。 「押井版が発表された九五年には、未だ情報環境への幻想が存在していたのに対し、神山版が発表された二〇〇二年には、2ちゃんねるを含む様々な「情報環境の現実」を実際に人々は味わっていた。人々は幻想を打ち砕かれ、ネットも所詮現実の延長でしかないのだと苦い失望を覚えてもいた。新しく登場したメディア・テクノロジーによって再編されていくリアリティの感覚をどう受け止めていいのか分からず、様々な混乱も生じていた。それらを受け止めるように、『SAC』は同時代のネットと絡み合いながら展開していった」。 そして第四章では二〇一三年スタートの『攻殻機動隊ARISE』など、一〇年代に制作されたハリウッドの実写映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』、最新作『攻殻機動隊SAC_2045』が取り扱われる。そこはまさに現代の問題が反映されたパートだ。 「共通する主題は「ポストトゥルース」である。真実や事実ではなく、デマやフェイクが影響力を持ち、世論を形成し社会を動かしていく状況をポストトゥルースと呼ぶ。その世界でどのように「正義」を成すのか、政治状況はどうなっていくのか、歴史修正主義による加害の否認などの問題とどう対決するかなどが、共通の問題となっている」。 著者はこの幹をベースにしつつ、さまざまな主題の枝を大きく広げていく。士郎正宗が原作で描いたもの。キャラクターが体現する政治思想の検討。サイボーグ化を入り口にした身体論。押井ら各クリエイターが『攻殻』世界に反映させた問題意識の変遷。それは『攻殻機動隊』という複雑な形をしたパズルを一度分解し、そのピースをひとつひとつ確認していく行為にも似ている。本書を読めば読者は『攻殻機動隊』という作品の設えが、メガネを掛けかえた時のようにクリアに見えてくるはずだ。そしてそこに〝私たち〞の姿が反映された、〝私たち〞の時代もまた見えてくる。 『攻殻機動隊』という作品は、どうしてここまで複雑な主題を内包しうるのか。その根源を著者は戦後日本の状況に見る。 「戦前と戦後の、断絶と連続、価値のヒエラルキーの混乱などが作用し、ハイカルチャーとサブカルチャーの奇妙な役割分担と反目が生じた結果、このような「科学と宗教」「技術と神話」という多くの者が悩まざるを得ない主題系に、哲学や宗教が応じることができにくかったので、日本ではSFやサブカルチャーがそれを引き受けることになった」。 これは著者のそのほかの著作にも通じる問題設定でもある。(ふじつ・りょうた=アニメ評論家)★ふじた・なおや=批評家・日本映画大学准教授。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』『新世紀ゾンビ論』『娯楽としての炎上』『シン・エヴァンゲリオン論』など。二〇一九年に震災文芸誌『ららほら』を創刊。一九八三年生。