――孤独でよるべない読書の悦び――倉数茂 / 作家週刊読書人2021年11月12日号うろん紀行著 者:わかしょ文庫出版社:代わりに読む人ISBN13:978-4-9910743-3-2 不思議な本だ。タイトルの「うろん紀行」とは何だろうか(胡乱な紀行?)。作者のわかしょ文庫とは何者なのだろうか? けれども読み始めるとそんなことはどうでも良くなる。読書好きなら、ある本の記憶がそれを読んだ時の周囲の風景や天候と重なって思い出された経験があるだろう。旅先や野外で読んだ本ならなおさらだ。本の内容が、その時の自分の周りの世界、そしてその風景の内部にいる自分の実在と分かち難く溶け合ってしまう。読んでいる私と読まれる本が混じり合う。 わかしょ文庫は、本を持ってゆかりの場所に行き、そこでおもむろに読書することでその状態を意図的に作り出そうとする。かつて玉ノ井という私娼窟だった東向島を訪れて『濹東綺譚』を読む。後藤明生『挟み撃ち』のページをめくりつつ主人公の軌跡をなぞって、埼玉の蕨からお茶の水まで遍歴する。大江健三郎『万延元年のフットボール』の物語では、谷間の村に初めてできたスーパーマーケットが村人たちの憤激を呼び覚ますので、著者はアメリカ資本の巨大スーパーであるコストコまで出かけていく。倉庫じみた売り場で本を開いているものなどおらず、著者は無理なく読書をできる空間を求めてコストコをさまよう。高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』を読む回では、目的地の金沢文庫が開館しておらず、最寄りのミスタードーナツで本を開くことになる。そうしたどこか場違いなエピソードを著者はユーモラスに綴っていく。 特定の場所で関わりのある本を読む。当然物語の世界と現実の外界とはぴたりと重なりあわず、いつでもズレがある。そして読んでいる〈私〉と物語もきれいには重ならない。著者は、笙野頼子の作品の舞台となった駅でこのように考える。「『タイムスリップ・コンビナート』の海芝浦駅、現在の本物の海芝浦駅、そしてわたしの頭のなかの海芝浦駅は全て異なっており、それらは決して交わることのないねじれの位置に存在していた」。本を読むというのは、本と自分のズレ、世界と自分のズレを感じることだ。だからどこか寂しさがある。(もちろん本と世界のズレもある)。この本でとても印象的なのは、文章から伝わってくるこのよるべなさであり、微かな寂しさだ。それはどうやら若い女性であるらしいわかしょ文庫が感じている寂しさであると同時に、本を読む私たち誰もが抱えている寂しさだ。この本は手軽な読書案内であると同時に、スキルや自己啓発を求めてするのではない読書の根っこにある寂しさにまっすぐに届いている。一人きりで読書をするとき、読むものは少しだけ自分が何者であるのかを忘れ、自分がなぜここにいるのかを忘れ、なぜこの本を読んでいるのかを忘れている。それは孤独なよるべない営みであり、だから反対に自分の孤独を持ち寄る場である読書会はあたたかい。だけど本書の著者は一人きりでその孤独と向き合う。そしてその時に、見たもの、読んだこと、考えたことを言葉にしていく。 初めて訪れた場所で手持ちの本を開き、ひととき文面に目を走らせる。〈私〉と本と世界とがズレながら重なりあっている。なぜか私はここにおり、この本を読んでおり、これからもこのようにして生きていく。その時に感じる寂しさと楽しさ。読書の悦びとはそのようなものではないだろうか。今度は自分もこの本を持ってどこかへ出かけようと思った。(くらかず・しげる=作家)★わかしょぶんこ=作家。一九九一年生。