――現実と呼ばれているものの根拠の危うさを白日の下にさらす――北條一浩 / ライター週刊読書人2020年7月10日号(3347号)未知の鳥類がやってくるまで著 者:西崎憲出版社:筑摩書房ISBN13:978-4-480-80494-5どうやら白いカバーらしいが、いちめん均一にのっぺり白いのとは違う。タイトルと著者名は大きく書いてあって、けれどそこには少し靄がかかっているようにも見える。そしてこの本にもっと近づき、手に取り、もう一度タイトルを確かめて、「そうか」と思う。この「白」は羽根だ。鳥の羽根。その羽根がフォントの上に下にひしめいている 書店の平台から少し離れてしまえば、羽根を羽根として認識するのが難しくなるように、私たちが普段あたりまえのものとして接している現実が実は非常に脆弱だということは誰もが知っている。建物が倒壊するには至らない程度の地震でも電車は止まってしまうし、ある日、街中でアスファルトの路面がはがれて土が露呈している光景を見るだけで、どことなく自分の無防備さを思い知らされているような気がしてしまう。 本書は、連作短編ではなく、八年ほどのあいだにバラバラに書かれたもののようだ。「どんな本?」と聞かれたら答えるのは非常に困難だが、例えば帯文で映画監督の岩井俊二氏が書いているように、「空想」という言葉にしがみついてみるのもいいかもしれない。 そう、空想。冒頭の「行列(プロセツシヨン)」は、空の行列を描いている。子供が、猿が、女が、小鳥が、虎が、名前のわからない動物が次々に空に現れ、行列を成す。ここでは著者が、それこそ空に想いを、空想を全開させているように思える。 一つの危機とその顚末を時系列で追い、一見するとオーソドックスなストーリーテリングと見えなくもない表題作にしても、全編これすべて夢でした、あるいは空想でした、としても不思議のない作品である。シリアスな状況ながら、冒頭に本書のカバーに対して書いたように、なんだか靄の向こう側ですべての出来事が起きているような空気感を湛えており、それが不思議なほど心地良い。台風の夜なのに深夜まで開いていて、路地の奥に位置しながら中は意外なほど広いレストランとか、団地の敷地内にあって、朝の四時半から上映している映画館とか、そうした舞台が非常に効いている。 そして最後の「一生に二度」は、正面から「空想とは何か?」を問うた作品と解釈することができる。一生のうちに二度、まったく同じような危機を主人公が体験するが、一つの人生の中にほぼ同じことが「二度」起きることを描いたこの一編で、著者は現実と空想を往還し、現実と呼ばれているものの根拠の危うさを白日の下にさらしているように読める。 どんな権力も他人も、ひとりの空想を侵犯することは不可能だ。そこに文学の価値もある。そして空想が実はぼんやりしたものでも無力でもないように、文学もぼんやりした思いなどではなく、もっとずっと確たる物質的なもの=言葉によって構成されている。 そのことを強く感じさせるのが、本書に多く出てくるいささか特異な漢字の数々である。ルビが施してあるが、見たこともない漢字、えっ? あれは漢字で書くとこうなるのか、と思わされる言葉が本書には頻出する。どう考えても意図的にそうしているだろうその考えはどのようなものか、一編ずつ味わいながらまた考え続けてみたい。(ほうじょう・かずひろ=ライター) ★にしざき・けん=作家、翻訳家、アンソロジスト、音楽レーベル主宰。文学ムック『たべるのがおそい』編集長(七号で休刊)、日本翻訳大賞選考委員。著書に『世界の果ての庭』(第十四回ファンタジーノベル大賞受賞)『全ロック史』など。訳書多数。一九五五年生。