――白川文字学の核心と、『説文解字』の呪縛からの解放――円満字二郎 / 編集者・ライター週刊読書人2020年11月27日号漢字の体系著 者:白川静出版社:平凡社ISBN13:978-4-582-12817-8 二〇〇六年に亡くなった白川静氏は、漢字の成り立ちを古代中国の民俗から解き明かす、独自の文字学を打ち立てたことで知られている。その成果は、『字統』に始まる字書三部作などにまとめられ、現在でも参照することができる。本書は、そんな氏が、最晩年に精力を傾注して書き上げた最後の字書である。 一般的な漢和辞典・漢字辞典では、漢字は部首別・画数順に配列される。それに対して、音読みの五十音順配列を採用するのが、白川文字学の字書のスタイルである。一定程度の慣れを要求する部首別・画数順配列に対して、五十音順は誰にとっても引きやすいという大きなメリットがある。しかし、本書ではそのスタイルは採られていない。これには重大な意味がある。引きやすさを犠牲にしてでも伝えたいことが、最晩年の氏の胸中にはあったのだ。 本書の第一部「百科篇」では、「季節」「身分」「祭祀」「農耕」といった六五のテーマで分けて、約七〇〇の漢字の成り立ちが解説されている。人々の生活に密着した切り口を採用することにより、漢字の成り立ちに隠されている古代中国の民俗が、読者により伝わりやすいようになっているのだ。たとえば、「道」には、異民族の首を用いて邪霊を除きながら移動するという民俗が現れているとする有名な字源説は、「道路」の項にある。そして、同じ民俗から「導」「除」「徐」「術」などが生み出されていくようすが、まとめて説明されていく。また、「文身」の項では、入れ墨の風習を窺わせる「文」をはじめ、「爽」「彦」「顔」「凶」「章」などの成り立ちにもその風習が現れていることが、関係性を持って解説されている。白川文字学の核心部分を把握したいならば、今後はまずは本書の第一部を参照するのが有効となるだろう。 それに対して、第二部「転注篇」では、漢字の「声符」を分類のキーに据えている。声符とは、わかりやすく言えば、部首ではない方のこと。部首をキーとして漢字を捉える伝統的な考え方に、真っ向から反旗を翻しているのだ。 部首とは、一世紀末ごろの中国で書かれた『説文解字』という字書で初めて採用された、漢字分類の方法である。同書は中国文字学では現在でも参照され続けている基本図書だが、なにしろ二〇〇〇年近くも前の書物だ。克服すべき点が多数ある。白川文字学は、『説文解字』という権威への挑戦に終始していると言ってもいい。たとえば、本書第二部の「者」の項では、古代文字の字形から、「者」は悪霊の侵入を防ぐための土の垣だとする。そして、「都」「奢」「諸」などはみなこの意味を有していると説き、『説文解字』の解釈ではそうはいかないと喝破するのだ。この第二部には、約一八〇〇の漢字が二七七の声符によって分類されて収録されているが、その解説からは、『説文解字』の呪縛から文字学を解放したいという、強い思いを読み取ることができる。 とはいえ、どんな偉大な業績であってもいずれは乗り越えられねばならないのが、学問の世界である。白川文字学も例外ではなく、現在では批判的な言及も目立つようになってきた。だが、健全な批判は、十全な理解を踏まえなければ成立しない。白川静という碩学は、その土台となるべき一書の原稿を遺して亡くなったのだ。それを託されてから一四年、さまざまな苦労があったことだろうが、ついに出版まで漕ぎ着けてくれた編集者の努力にも、敬意を表したい。(えんまんじ・じろう=編集者・ライター)★しらかわ・しずか(一九一〇―二〇〇六)=一九八一年立命館大学名誉教授。甲骨文・金文の綿密な読解により『説文解字』の文字解釈をぬりかえ、「白川文字学」の基層たる『説文新義』を著す。『金文通釈』のほか、自らの字説に基づく字源字書『字統』、日本語と漢字の出会いを探った古語辞典『字訓』、漢和辞典の最高峰『字通』の字書三部作を完成。没する直前まで漢字の復権と東洋の回復を提唱し続けた。