窒息状況からの脱出の模索として分業・専門家に揺さぶりをかける〈思考〉の書 松本潤一郎 / 就実大学准教授・フランス現代思想週刊読書人2022年3月11日号 哲学の条件著 者:アラン・バディウ出版社:藤原書店ISBN13:978-4-86578-331-5 『存在と出来事』(一九八八)日本語訳版刊行が二〇一九年末。二年後、同書による自らの思考の体系的整序を経て闊達に己の哲学を披歴する本書『哲学の条件』(一九九二)日本語訳版が出来した。本書公刊を以って、バディウ哲学の核心の一端が明らかになった。 本書にはバディウの友であり出版社〈ル・スィユ〉編集人でもあった哲学者フランソワ・ヴァール(二〇一四死去)による『存在と出来事』概説を含む序文「抜け去るもの」(« Le soustractif »が収録されており、『存在と出来事』のエッセンスが凝縮して示されている。「抜け去るもの」によると、ヴァールはバディウの哲学について、彼と何度も対話してきたという。バディウをよく知る者の視点からの鋭い問いかけもあり、恰好の解説になっている。「抜け去り」(soustraction)はバディウ思想の要の概念の一つである。『存在と出来事』では「免算」と訳されていた。既存の集合(状況)の中では数えられていない(≒員数に含まれない)ため存在しない(と見做される)部分集合、特に既存の集合を異なる規則によって新たな集合へ作り変えられる部分集合(状況の真理またはジェネリックな部分集合)は、既存の集合から「免算」されている。訳注に「抜け去り」と訳した事情については記されているものの(本書五七八頁)、『存在と出来事』との異同には言及がない。なぜ変更したのかは書かれていないが、「抜け去り」は数学的なものを喚起する「免算」よりも、哲学らしさを感じさせる訳語であると思われる。たぶん、『存在と出来事』では数学的操作を駆使して議論が展開されていたのに対し(同書が横組みたる所以である)、本書ではより哲学的な議論が行われていることに、この変更は係わっているのだろう。 なぜバディウ哲学は数学、特に集合論に依拠するのか。本書によれば、二つ理由を考えられる。第一に数学は存在論だからである。哲学は存在を扱う。そして存在は実体を持たない。存在は空である。ところで集合論は空から無限を生成させる。したがって集合論は存在を最適な仕方で思考する。第二に、既述のように、数学は無限を思考するからである。バディウにとって哲学は哲学の終焉、形而上学批判、〈限り有る生命〉の無批判な肯定、歴史主義といった立場に与さない。むしろ哲学はカントールが集合論によって切り開いた無限論に衝撃を受けたはずだと彼は確信する。したがって、かつてプラトンが通念を断ち切って思考へと人を向かわせる媒体として数学を重んじたように、有限ではなく無限の方へ思考は導かれる。ジェネリックな部分集合は数えられない。それはつねに無限である。有限であればその部分集合は既存の集合の項から構成された部分集合であることになって、抜け去っているとは言えないからである(二六七―六九)。上述した立場はいずれも既存の状況からは脱出できず、その必要もないと考えており、したがって真理を不要と見做している。 思考は〈空〉である。状況に〈空〉を見出すことでもある。〈空〉がなければ真理は生産されない。言い換えると、既存の状況を脱出したり、作り変えたりすることができない。充満してもはや変更の余地がないと思われる場に隙間を空け、そこを起点に新たな場をつくりだすことが〈思考〉である。真理の生産とはこれを指す。息が詰まる状況の壁に穴を開け、空気=可能なものを通す試行と言えばよいだろうか。 真理の生産過程は四つある(数学、詩、政治、愛)。そのため本書には哲学自体を扱った章の他に哲学と詩、哲学と数学、哲学と政治、哲学と愛の関係を扱う章があり、さらに精神分析と哲学の関係を扱う章、作家サミュエル・ベケットを論じた章が続く。哲学は数学には還元されない。しかし哲学は詩の存在論的読解とも同一視されない。本書によるとハイデガー以降、多くの哲学者がこの方向へ進んだ。また哲学は政治にも回収されない。本書によると『法律』のプラトンはこの途に踏み込んだ。愛に関しては、愛を論じた章とベケットを論じた章を読むと、愛における「女性」のポジションに特別な地位が割りふられている。同ポジションが愛を含む四つの真理のタイプを結びつけるからである(三九九―四〇一、五三一―五五)。女性のポジションについてはラカンによる性別の論理式があり、このことも哲学と精神分析の対話が継続される大きな理由となっている。抑々バディウによると哲学と精神分析の違いは微妙であり、両者はプラトンとソクラテスの関係をどう理解するかによって分岐する(四七一―七四)。ここは本書の読みどころの一つだろう。 四つの過程が哲学の条件である。哲学は四重の模倣であり、四過程を重ね合わせて共通部分を浮きあがらせ、その状況の理想(理念)的フィクションを組み立てる(一一四)。模倣という点で哲学は、プラトンが忌避したソフィスト、追放した詩人と変わらない――〈真理は/がある〉という公理を除いて。なぜ模倣なのか。なぜ哲学は専門知ではないのか。哲学は誰にも宛てられていないがゆえに万人に差し出されているからである(一二〇―二一)。思考(真理)と知(状況内の知)は区別される。後者は専門知と職業化された知を含み、前者は哲学に対応する。既存の状況を補強する限り、後者は思考ではない。原書刊行後三〇年を経てなお、本書がアクチュアリティをますます強めている理由の一つがここにある。専門分化と分業から今日のコンセンサス権力は現われたからである。今日の権力は、専門家の説明と各種アンケート調査を通して人びとの異議申し立てを予め封じ、コンセンサスはすでに成立しているのだからとして、現状変革の芽を優しく摘んでゆく。どれほど穏和であっても、それはやはり現状維持の仕組みである。他方、哲学は専門知ではない。それは〈空〉だから誰にも宛てられておらず、したがって万人に宛てられている。思考とは分業と専門分化に揺さぶりをかけ、状況に〈空〉を穿つことである。今日、私たちはこのような意味において〈思考〉しているだろうか。私自身、日々の生活の中で思考する機会を失っている。思考するとは、言わば〈素人〉になることだ。四重の模倣から得られるフィクションという哲学の定義は、哲学をすることは門外の者になることと述べたに等しい。数学は空を巧みに思考し、詩は存在しない来るべきものを名づけ、政治は空位(騒乱)を恐れる国家に対峙し、愛は二者が支える二者の隙間である。四つの思考は互いに還元できないが、哲学はそれらの軌跡を重ね合わせ、共通部分≒不在の理念を天空に描き出す。哲学の使命は、四つの思考の還元不可能性を専門分化との混同から守護することにある。四つの思考を還元不可能なままに結びつけるものの考察に割かれた二つの章が、本書へ収められた所以である。私たちの生きている社会は私たちから思考を奪う社会であり、本書の本懐は思考の奪還にある。(藤本一勇訳)(まつもと・じゅんいちろう=就実大学准教授・フランス現代思想)★アラン・バディウ=高等師範学校名誉教授。パリ第八大学哲学科教授・高等師範学校哲学科教授を務める。フーコー、ドゥルーズ、デリダなきあとの、フランスの最大の哲学者。著書に『存在と出来事』『哲学宣言』『ラカン』『ドゥルーズ 存在の喧騒』など。一九三七年生。