――作者の透徹とした視線によって宿命的に書かれたテクスト――山﨑修平 / 詩人・文芸評論家週刊読書人2021年10月29日号長澤延子全詩集著 者:長澤延子(著)/福島泰樹(編)出版社:皓星社ISBN13:978-4-7744-0736-4 詩人・長澤延子をご存知だろうか。 まずは、「舞踏会」という詩を引用し紹介する。 波の底からゆらめき出る黄色い肉体に光がくだけ今宵の舞踏会に海底は広いのか。橙々色と真黄色と真白な奴とそれから紫色のシャンデリヤだ。舞踏靴を見ろ!血みどろだぞ。黄色い奴の赤い唇、橙々色の黒い唇、接吻の音に波が高い。抱擁の触手が波頭にくだけ暗い磯にふれては返つてくる今宵の舞踏会に海底は広いぞ。見ろガラスが海面一ぱいに流れては飲みほすのどに乱れ散り。注ぐリキュールは極上等。カーニバル、海底は広いぞ。(後略) 驚きを禁じえない。長澤延子、十六歳のときの作品である。年齢などいささかも考慮せずとも、一つの完成された型をもつ抒情詩人の作品であろう。元来、各々異なる色をもつ、つまり個体差のある人間を、「橙々色」、「真黄色」、「真白」という色の型にはめることへの抵抗・拒絶を書いているだけであるなら、思春期の反抗を描いた、に留まるのだが、この詩の恐ろしいところは、提示されている「型」を作品内で一旦引き受けた上で、俯瞰した視点により、さながら洪水のように抒情も感情も流し去ってしまうところにある。巷間見られるようなセンチメンタルな詩でも、内実の吐露に留まっている詩でもない。すべては無に帰す、無を描く、その覚悟が書かれた詩である。極言すれば神の視点によって、人を観て、人を裁いているのである。 この詩の収められている『長澤延子全詩集』は、九百ページに迫る大著であり、鮮やかな織物調の装幀となっている。この織物によって包まれている書物であるということこそが、長澤延子の詩を読む上で、重要なキーワードとなる。 長澤延子は、一九三二年に織物で知られる群馬県桐生市に生まれた詩人であり、一九四九年に服毒自殺により亡くなった。 若くして亡くなった作者の作品を扱うとき、その衝撃的な事実の大きさから、批評する際には注意を要する。死を連想させ、また生にもがくテクストから、現実の死という、免れ得ない事実に直結させて読むことは容易い。だが、長澤延子という人物が自死を選択したことと、遺した詩を同一の視座では読んではならない。無論テクストのみを読めば、作品はすべてわかるという盲信も許されない。遺されたテクストと、事実とを織物に触れるように丹念に読み解いてゆく必要がある。それを為すことができるのも、作者の全作品を収めた「全詩集」があってこそである。作品はもちろん友人らによる様々な証言、長澤延子の「手記」も、後生の読者や研究者が、多角的に論じることができるために、欠くべからざるものである。 長澤延子の死後、安保闘争に突入する時代において、長澤延子は「再発見」され、学生たちを大いに奮起させたという。戦後史の転換点の目撃者として、そして戦後詩史の一ページに刻まれるべきである。個人によって保管される手記は、ややもすると散逸し、親類や友人の証言は、やがて忘却されてしまう恐れがあるが、こうして書物としてかたちにされることによって、人類の共有の記憶として未来永劫残る。刊行に至る経緯とともに跋文を寄せた福島泰樹や、版元の並々ならぬ情熱と大変な労苦への尽力に敬意を表したい。 さんらんと降りまくる 夏の日の紫の破片。私の胸をとおる いくすぢもの鋪道に、点々と街路樹は灯をともし。数知れぬフランス窓が埋めつくされた丘陵に浮んでいる。紫の饗宴。暗い地平に太陽は入り乱れ。 (後略) この「饗宴」という詩を読むと、夏の光によってすべてが貫かれるような、射抜かれるような感覚に襲われて狼狽える。それでも紙面から目を離さずいると、作者の透徹とした視線によって宿命的に書かれたテクストが浮かび上がる。織っては紡ぎ、紡いでは織るようにして書き残された詩篇である。(やまざき・しゅうへい=詩人・文芸評論家)★ながさわ・のぶこ(一九三二―一九四九)=群馬県桐生生まれ。『長澤延子遺稿集 海』『友よ、私が死んだからとて』など、過去に多くのアンソロジーが組まれてきた。★ふくしま・やすき=僧侶・歌人。「短歌絶叫コンサート」を創出、朗読ブームの火付け役を果たす。一九四三年生。