荒木優太 / 在野研究者・日本近代文学週刊読書人2021年4月23日号コンテクストの読み方 コロナ時代の人文学著 者:千葉一幹出版社:NTT出版ISBN13:978-4-7571-4357-9 コンテクストとはいうまでもなく文脈を意味する言葉だ。これを表題に採る本書は、その指すところを種々の批評理論・読解方法に定めている。ある同一テクストを評価するにしても、これを読むときの方法いかんによってその内実は一変する。コンテクスト設定能力は不当に軽んじられる人文知の復興に役立つというのが本書の大きな主張だ。 そういった考え方は目次全体によく表れている。第一部では、記号論、ナラトロジー、精神分析、ブルデュー社会学、フェミニズムといったテクストの各様の読み解き方をですます体で紹介しながら、第二部では、である体に一転、「倫理」をキーワードに夏目漱石の小説群を実際に読み解いてみせる。さしずめ、理論篇に対応する実践篇といった趣きであり、この構成自体がコンテクスト(第一部)があってテクスト(第二部)に臨めるという本書の主張を綺麗に表現している。 ただし、第二部は厳密にいえば二つに分けられる。著者独自の漱石論に次いで展開されるのは、後期三部作で終わっていた論のつづきとして交わされる対話篇、どうやら教室でなされていると思わしき「先生」「Y」「J」ら三者による討論になっており、実質的には三部構成を採っている。この隠しパートともいうべきカラクリは明確に意図的なものといえよう。なぜならば、千葉によれば文学作品の真価が発揮されるのは孤独な読書ではなく、議論を通じた目の前の他者との、さらには過ぎ去った歴史の他者との邂逅においてであり、そこで初めて実社会と結ばれた「役立つ知の技法」としての人文知が確立されるからだ。この隠れ弁証法(二と思ったら三)的な目次立てを最後まで読み通してみれば、善悪の二分法が通用しない相対界へ至ることを旨とする当の漱石論を象徴しているような印象すら受ける。 評者は決して千葉の主張に全面賛成しない。フェミニズム批評応用的な『坊ちゃん』論ではマドンナを清と対になる母として見出す論述に疑問を覚えた。「マドンナは、この「悪い対象」=「悪い乳房」を体現した女として死を求められるのだ」とあるが、そもそもマドンナは死んでないのではないか。『三四郎』論での学問界の扱いを、真偽の二分法が統べるということで『坊っちゃん』の善悪二分法に重ねる類比も説得的には感じなかった。各論とは別に「文学的知識がないと恥をかくような社会になってほしい」といったより著者の内面に踏み込んだ願いにもまるで共感しない。 とまれ、文学研究法のもつ直近の効用を強調する一連の語りには、無用の用に代表される抽象的・長期的な展望への饒舌と引き換えに文系学部廃止論への隙を与えてきた先行言説の戦略に対する不満があるだろう。本書が興味深いのは、正面をきって役立つ人文知を語り、コミュニケーション現場での再活性すら再現してくれるにも拘らず、その先に待っているのは「絶対的ディスコミュニケーションの経験」であるというねじれた帰結を隠さない点だ。 千葉は小林秀雄を引きながら、批評理論を重たい「鎧」にたとえる。たしかに鎧を着れば武者は怪我することなくテクストという戦地に赴けるし、そのデザインや家紋でもって武者同士の共通の話題作りには事欠かないだろう。けれども、鎧自慢には自分がいない。自分という痛みや傷がない。これを批判的に捉える千葉の筆致を評者なりにパラフレーズしてみれば、コンテクスト設定能力とは、種々のコンテクスト(批評方法)を身につけること以上に、あるコンテクストに乗った状態とそうでない状態の区別に自覚的になれること、場合によってはコンテクストを解除する力を自ら行使できることにあるのではないか。着方に通じるからこそ外し方も分かる。着ることが大事なのではなく、着ようとしたり外そうとしたりする自分をもちなさい、それこそ種々の鎧が与える最大の教えなのではないか。もしかしたら撞着的に聞こえるかもしれない戦略の数々は、ことごとく現代の人文知のもつ苦境の深度を表している。(あらき・ゆうた=在野研究者・日本近代文学)★ちば・かずみき=大東文化大学文学部教授・文芸評論家。「文学の位置森鷗外試論」で群像新人文学賞。著書に『宮沢賢治 すべてのさひはひをかけてねがふ』(島田謹二記念学藝賞)『現代文学は「震災の傷」を癒やせるか』『賢治を探せ』など。一九六一年生。