インゴルドとともに「生きていること」を生け捕りにする 奥野克巳 / 立教大学教授・文化人類学週刊読書人2022年1月21日号 生きていること 動く、知る、記述する著 者:ティム・インゴルド出版社:左右社ISBN13:978-4-86528-037-1 点と点を結ぶネットワークではなく、線が織り成すメッシュワークを。主・客のスタティックな二元論ではなく、生成変化の只中で起きる「生きていること」を。現実から乖離した学知ではなく、身体経験を伴う実践知を。 待ち望んだティム・インゴルドの邦訳(原著二〇一一年)が刊行された。本書には、一九九九年から二〇〇九年に書かれた論考などが収められており、インゴルドは時に理詰めで攻め上がり、時にはユーモアたっぷりに語っている。 二足歩行により人類が自然から引き上げられた結果、歩くことへの関心が衰退していった。インゴルドはまず、人間が根本的に周囲の環境に触れるのは足が地面に接している時であり、足を通して知覚される世界を復権すべきだと高らかに宣言する(第一部)。 続いて、「生きていること」には必ず運動が伴うという点を深めるために、ギブソン、ユクスキュル、ハイデガー、ドゥルーズらを参照した上で、環境と私たちが今まさになしつつある生成に寄与する素材の流れや運動の中で、環境と一緒になる点にこそ目が向けられるべきだと論じる。関係が複雑に織り成されるさまを、ルフェーブルから借用してインゴルドは、メッシュワークと名づけている。それは線描の縺れ合いであり、点から出発するネットワークと比較されうる。彼はその二者の違いを、クモとアリを登場させながら巧みに語っている。熟練されたメッシュワークは、発達して身につけたクモの応答から構成されるのだ(第二部)。 風や気象などと交わりながら私たちが生きて呼吸をするなら、大地の媒質(メディウム)と結ばれながら、陸をなす生命線が紡がれていくことになる。ならば、ランドスケープ概念まずありきで語るのは誤りであろう。光や音や感触の経験としての気象は知覚の対象ではなく、私たちがその中で知覚しているものであり、それこそが私たちが見聞きしたり触れたりする能力を保証する。音はランドスケープ上に形成されているのではない。それは風のように流れ、渦のように循環するのだとインゴルドは主張する(第三部)。 学問は、外部から空間を措定する。インゴルドはそうした空間概念を破却せよという。居住者が住まう場所を取り戻し、行為者が没入する関係の場で生成する知について物語らねばならない。彼が注目するのは、動物の名前を動詞的に表現するアラスカ先住民コユコンの民族誌だ。「遠く離れたあそこに閃光が現われた」(アカギツネ)、「あなたに物事を伝える」(ミミズク)などで表されるように、全ての動物は生成の形態に他ならないという(第四部)。 さらにインゴルドは、物のかたちを再考して、想像力のうちに創造的な生を認めるべきだと議論を進めている。つくることをめぐるアリストテレス的な質料形相論的なモデルを、かたちは死であると述べたクレーを手がかりとして、素材の流動と遷移を第一の与件とする存在論に書き換えるべきだとインゴルドは主張する(第五部)。 インゴルドの問題意識の底には、知が学問として構成される過程で、現象それ自体から遠く離れてしまったことへの苛立ちがある。疑いを元手に、彼は古今の思想家と対話を交わし、「生きていること」それ自体へと没入し、物質が媒質とともに活性化する事態を生け捕りにしようとする。「人類学はエスノグラフィーではない」(第十九章)を読むと、後に『人類学とは何か』(原著二〇一八年)の中でより洗練されたかたちで提起される主張の萌芽が見られる。だがこの段階では、議論はいまだ散らかったままである。しかしそのことにもまた、書くことで思索を前に進めるというプロセス重視のインゴルドの学問スタイルが現われているのだ。 今日、人文諸学、アートや建築などで盛んに参照されるインゴルドの思想の源泉は、本書でなされている濃密な思索の中にある。本書は、インゴルドから学びたい全ての者にとっての必読書である。末筆ながら、さぞ難行であったろう訳者諸氏の翻訳の労に敬意を表したい。(柴田崇・野中哲士・佐古仁志・原島大輔・青山慶・柳澤田実訳)(おくの・かつみ=立教大学教授・文化人類学)★ティム・インゴルド=社会人類学者。トナカイの狩猟や飼育をめぐるフィンランド北東部のサーミ人の社会と経済の変遷についてフィールドワークを行う。著書に『ラインズ 線の文化史』『ライフ・オブ・ラインズ 線の生態人類学』など。一九四八年生。