――陰からちらりと覗き見する異端的文学――志賀信夫 / 批評家週刊読書人2021年11月5日号孤独な窃視者の夢想 日本近代文学のぞきからくり著 者:谷川渥出版社:月曜社ISBN13:978-4-86503-120-1 谷川渥は日本を代表する美学者である。そういわれると、美学・美術史をイメージするはずだ。だが美学は言語芸術、身体表現などさまざまなジャンルに関わる。その点でも谷川は、これまで美術のみならず文学や身体表現などにも、美学の視点で関わってきた。 最近、舞踏家、浅井信好らによる『ピーピング・ガーデン』というダンス公演を見た。円形の仮設舞台を一人ずつ仕切られた客席が取り囲む。そこでごく細い横長の窓かその上の小さな穴から舞台を見る。まさに覗き見(ピーピング)体験だ。これは、一九六〇年代から八〇年代頃まで流行ったのぞき部屋にヒントを得たものだ。当時、部屋の中には肌も露わな女性がいて、男性客が覗く風俗産業だった。 覗きといえば、明治時代の出歯亀事件が思い浮かぶが、いまだに時折、教師や警官の盗撮事件が報じられる。覗く行為自体がエロティシズムと関わり、強く欲望が高められるからだろう。 文学作品にも、それと通じるところがあるのかもしれない。というのは、物語は他人の人生であり、読者はそれを覗き見している、ともいえなくはないからだ。 本書のルソーをひねった『孤独な窃視者の夢想』というタイトルは、文学を正視するより、陰からちらりと覗き見するという意味と、覗くエロスを感じさせるような異端的文学を探訪するという二つの意味があるのだろう。 そのため取り上げる文学者も、正当とされる夏目漱石、森鷗外から萩原朔太郎、谷崎潤一郎、そして江戸川乱歩、さらに夢野久作に至る。テーマも変態、猟奇、グロテスク、デカダンスなど。つまり、澁澤龍彦の系譜にある。だが、決定的に異なるのは、谷川が美学という鍵を持っていることだ。その鍵で異端的文学の扉をどう開くかが本書のポイントである。 まず引きつけるのは、ダ・ヴィンチと近代文学の関係である。『吾輩は猫である』にダ・ヴィンチが登場し、トイレの壁の染みに絵画を見いだす話は、指摘されて初めて気がついた。これは谷川が近年注力している抽象絵画にも通じるものだ。そして漱石がいかに美術の海外文献を渉猟していたかも驚きであり、通常の文学研究者には示せない目から鱗の指摘である。そこから、レオナルドと、詩人で彫刻作品もある高村光太郎、さらに、夭折の画家として知られ、詩や希有な奇想小説も書いた村山槐多との関係も述べられる。 また、谷川はデカダンスを論じるのに、便宜的に三つの概念軸を設定する。「正常―変態」「健康―病い」「法的規範―犯罪」。そしてこの三つはしばしば重なるとする。そこから「変態」「病い」「犯罪」を近代文学とともに論じる視点も秀逸だ。それにより、乱歩をはじめとする『新青年』時代の探偵小説の名作が猟奇的・変態的であったことも読み解ける。 さて、乱歩が窃視者であることはよく知られている。だが、カメラや幻燈を愛する朔太郎をその視点で論じることはスリリングであり、また、二人が「猫」でつながるところは見事だ。さらに忘れてはいけないのは、夢野久作の『ドグラ・マグラ』だろう。この作品を認めない乱歩の視姦的、窃視的な「エロ・グロ」に対して、「久作のそれはいわば哲学者のものであった」という谷川の指摘は、この怪作を読み説く一つの鍵になるだろう。このように谷川は、窃視という視点から、随所で作品の本質に切り込むのだ。 さらに、谷崎の映画と女性、川端康成・脚本の衣笠貞之助監督『狂った一頁』を論じる。谷川の窃視は、美術、文学から映画に至るのだ。もちろん映画も窃視の芸術であることは、ヒッチコックの『裏窓』が示しているだろう。 また、驚くべきは、『視覚的無意識』などロザリンド・E・クラウスの難解な二作の翻訳を世に問いつつ、本書のような「窃視の文学」を提示する谷川のスタンスである。もちろんそこには通底して、求める「美」がある。ここで谷川は、グロテスク、変態、猟奇の美を通じて、私たちに「窃視の美学」を論じてみせたのだ。(しが・のぶお=批評家)★たにがわ・あつし=美学者。著書に『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』『肉体の迷宮』『文豪たちの西洋美術 夏目漱石から松本清張まで』など。一九四八年生。