――メキシコの若き先住民たちの実践――畑惠子 / 早稲田大学名誉教授・メキシコ近現代史週刊読書人2020年6月5日号(3342号)21世紀のメキシコ革命 オアハカのストリートアーティストがつむぐ物語歌著 者:山越英嗣出版社:春風社ISBN13:978-4861106750メキシコ南部に位置するオアハカとは、メキシコ人にとって懐かしいふるさとのようでもあり、異国情緒に満ちた場所でもある。そこには多数の古代遺跡が残り、現在も州人口の三四%を占める一六の先住民族が独自の言語や文化を保持して暮らしている。もちろんオアハカ市は典型的なコロニアル都市であり、絢爛豪華なサントドミンゴ教会などが観光客を集めている。一九一〇年に始まり四〇年に終わったとされるメキシコ革命。その過程で、混血(メスティソ)国家論、すなわち征服者のスペイン人と被征服者である先住民との人種的文化的混淆からメキシコが誕生した、という言説が定着した。だが、国家が自らのルーツとするのは誇るべき古代文明であり、観光文化資源として利用可能な民俗文化であることは否めない。不条理を生きる「生身の先住民」は今なお、公的歴史の埒外にある。 一見、牧歌的なオアハカだが、国中がそうであるように、貧困・格差、暴力、政治腐敗などへの不満がマグマのように堆積し、地殻を破って噴出することがある。たとえば二〇〇六年の抗議運動。五月の教員組合のストを機に、様々な集団が非民主的で抑圧的な州知事を糾弾して人民民衆会議(コミューン)を結成し、州政府・警察と武力衝突しながら半年間対峙した。そのなかには、街路に壁画を描き、ポスターを貼って政治的メッセージを発信した若いストリートアーティストたちがいた。そのような小集団を代表するのが、オアハカ革命芸術家集会(ASARO)である。「ぽっかり開いた裂け目のような」路上アートに遭遇した著者は、二〇一二年から一七年までに七回現地を訪れ、聞き取りを続けた。本書はASAROの活動と意識の軌跡をたどり、与えられた先住民イメージをその手で壊していく若者たちの実像を描く。 ASAROメンバーの多くは農村出身で先住民意識を持っている。だが彼らは自らの歴史を官製の歴史に対置し、新たなアイデンティティを創造する。その思いはストリートアートによって言語化される。国の守護聖母、混淆の象徴であるグアダルーペの聖母は、ともに闘い、弾圧から守ってくれる聖母となる。アートは制度化され形骸化した革命の歴史からその英雄たちを現代風に甦らせ、自分たちの側に取り戻す。 だが抗議運動終息後、その作品に関心を寄せた海外の美術市場が、「抵抗する先住民」、「草の根民主主義の実現」などのラベル化を行い、州政府による文化資源としての取り込みも始まる。ASARO内部にも、芸術の理想と市場主義、成員間の平等・再分配と競争原理の間で葛藤が生じる。だが、彼らは折り合いをつけながら、時に外部の力を巧みに利用して、解決策を見出していく。評者にはその姿が同時代を生きる私たちと重なってみえる。 年月が経ち抗議運動の記憶が風化するなか、ASAROは次世代に向けたワークショップを村落やオアハカ市の工房で開き、知識や経験を伝えようとしている。参加者は工房を村落と外部社会の結節点として捉え、海外への憧憬を口にする一方で、制作を通して村落の言語や文化に向き合い、××民族という枠を超えたアイデンティティを編み出しているという。著者は、オアハカに生きる画家・竹田鎮三郎が美術教師として、版画による言語化(しかも版画[アート]は世界語である!)、そしてオアハカのためのアートという郷土主義をASAROに伝えたことを論じているが、竹田の思想はポスト二〇〇六年世代にも継承され、日々の実践の礎となっている。本書には作品の写真が収められている。そこからは、村落と外部世界、過去と現在を往還しつつ、直截的に諧謔的に、異議申し立てを続ける若者たちの声が聞こえる。(はた・けいこ=早稲田大学名誉教授・メキシコ近現代史) ★やまこし・ひでつぐ=早稲田大学人間科学学術院助教。博士(人間科学)。論文に「想像の共同体としてのプエブロ 南部メキシコ社会をめぐる表象のポリティクス」(『文化の遠近法 エコ・イマジネールII』所収。蔵持不三也・嶋内博愛監修、伊藤純・藤井紘司と共編)。一九八一年生。