詩人的批評、自己の「悪」に自覚的な〈非知〉 先崎彰容 / 日本大学教授・近代日本思想史週刊読書人2022年2月4日号 「還って来た者」の言葉 コロナ禍のなかでいかに生きるか著 者:神山睦美出版社:幻戯書房ISBN13:978-4-86488-233-0 吉本隆明と小林秀雄の作品は読みにくいという話をよく聞く。その理由は彼らが詩人だからだと言うのである。詩人の言葉は、論理的に破綻していることもしばしばだし、直線的に読んで理解できるものではない、という意味だろう。しかし詩人の言葉は、本当に難解なのだろうか。「言いたい事」を伝達する手段は、最近の自己啓発系の本が主張するように、短時間に、合理的に、結論だけを伝えるということなのだろうか。むしろ私たちは、言葉が曳く航跡を辿ることに、言いようのない至福の時間を感じるものではないのか。「ムダ」な時間にこそ、人間の生きている意味があるのではないか。 ならば詩人自身に聞いてみるのがよかろう。本書は詩人的感性をもつ文芸評論家の手になる、「コロナウイルス論」である。もちろんコロナウイルス対策についての現実的な提案など書いていない。吉本隆明と小林秀雄の作品を紐解きながら、現代社会への深い洞察を目指し、息の長い時代評論を書こうとした野心的試みである。 具体的に内容を見てみよう。恐らく著者が時代を斬る最大の武器としたのは、吉本隆明の親鸞論である。「非僧非俗」とは、僧侶の世界を規定するルールからも、俗世間の秩序いずれからも逸脱し、自在の場所に生きることをさす。一見、俗世間とは無縁にみえる宗教でも、教団になれば上下関係にわが身を拘束されてしまう。そこから脱出し、「自立」して生きることを親鸞や西行は選択した。吉本隆明もまた、戦後の思想空間のなかで、アカデミズムや派閥への所属を絶った批評家だったのである。 こうした無所属への希求は、ある意味、当然のことを言っている。文学や詩、批評に携わる者たちは、人と共同することを嫌い、所属を拒絶することはむしろ一般的な事柄に属する。著者・神山が何より鋭いのは、吉本が親鸞に読み取った〈非知〉の思想が、そうした凡百の無所属希望者とは全く異なることを指摘している点にある。なぜなら彼らは、自分が共同体から逸脱し、自由を求めることを、「正しい」と考えているからだ。吉本が親鸞の「非僧非俗」を〈非知〉と名づけ注目したのは、親鸞が自らの立場をあくまでも「悪」と考えていたことによる。つまり、親鸞は自らが無所属を希求し、自由を求めることを肯定していない。あくまでも悪いこと、人間の煩悩にして性であると考えているのである。自己肯定を徹底的に相対化し、戒めた吉本=親鸞の鋭さを、神山氏は見抜いている。折口信夫の「まれびと」と悪人正機説の類似性を、次のように指摘してみせる――「悪人正機説を、最も辛い立場に追いやられた人々でも、往生は必定だという考えから導かれたものと考えればということです」。 また加藤典洋の戦後憲法論を論じた箇所を見てみよう。憲法九条をめぐって、一九九一年「湾岸戦争に反対する文学者の声明」が出されたが、それに対する加藤の違和感と、小林秀雄の戦争に対する態度に、ある共通した感受性のありようを、神山氏は発見する。小林が書いた、憲法に関するエッセーには、戦争放棄の宣言は「事実の強制力で出来たもので、日本人の思想の創作ではなかった」という一文がある。小林を保守主義者と規定する者たちは、この文章をこぞって批判したが、神山氏は異なるメッセージを汲み取るべきだと考える。小林は、日本人の責任感のなさや集団主義的な態度の典型例だと批判されている。しかし本当にそうだろうか。そうではなく、小林は「敗戦という大事実」にまずは首を垂れるべきだということ、つまり言語を絶した絶対的事実を目の前にしたとき、いきなり戦争反対や民主主義といった正義の言葉で蓋をするのではなく、先ずはその事実の前に絶句せよと言っているのである。 ここで神山氏が小林に発見しているのは、人間には「二つの倫理」があるという事実である。戦争を反省し、憲法九条や民主主義という「正義」を握りしめ、自分が正しい立場に立とうとする倫理がある。一方で小林がとった倫理とは、壮絶な事実を前にしたとき、人は一度は言葉を失い、謙虚になれという倫理なのだ。 以上の吉本と小林に共通するのは、自己絶対化への戒めである。このあらゆる出来合いの正義感から身をかわし続ける態度こそ、詩人的批評ではないか。「非僧非俗」的態度、自己の「悪」に自覚的な〈非知〉ではないのか。 このような態度に貫かれた現代社会論、コロナ禍時代への批評作品が、ようやくのこと出現したのである。(せんざき・あきなか=日本大学教授・近代日本思想史)★かみやま・むつみ=文芸評論家。東京大学教養学部教養学科フランス分科卒。著書に『小林秀雄の昭和』(鮎川信夫賞)『終わりなき漱石』(小野十三郎賞)など。一九四七年生。