生き延びようとするだれかのための「新しい語りの型」と「物語」 川口好美 / 文芸批評 週刊読書人2022年4月8日号 当事者は嘘をつく 著 者:小松原織香 出版社:筑摩書房 ISBN13:978-4-480-84323-4 様々な人々がこの本を手に取るだろう。その人はなんらかの出来事の「当事者」かもしれず、「研究者」かもしれず、「支援者」かもしれない。自分をどこに位置づければよいか迷いながら、あるいはどこにも位置づけられないまま、出来事と向き合おうとしている人かもしれない。本書は、著者が臨床哲学を学ぶ大学院生に向けて「研究者」として語るなかで、自分が性暴力被害「当事者」であることを「初めて他人の役に立てるために」カムアウトした経験を契機として書き出された。「もしかすると新しい哲学研究のアプローチについてガイドブックが書けるのではないか」という希望を抱きながら。そうして著者はこの「ガイドブック」を、「私」の、「きっと嘘がたくさん含まれた物語」、「精一杯の当事者の夢」として書いた。「少しでも読者の役に立つこと」を祈りながら。「当事者」の立場に固執することだけが重要なのではないし、様々な立場を認め、それらに平等に目配りすることだけが重要なのでもない。出来事の瞬間、ひとは否応なくひとつの立場に立つ。立たされる。しかし他人たちと共にこの世界に存在している以上、ひとつの立場にしか立たない、立てないというのはナンセンスである。「私」とは、この容赦のない背理によって引き起こされる葛藤・抵抗・ねじれの〝場〞そのものではないのか。そうして本来「物語」とは、ねじれをねじれのまま、架け橋不可能なものを架け橋不可能なまま引き受ける意志と努力と屈惑と驚きを語ろうとする、「私」のぎりぎりの表現行為ではないのか。本書が生き延びようとするだれかの「役に立つ」とすれば、それは、あくまでも明晰でコンパクトな、ときにはユーモラスでチャーミングですらある「新しい語りの型」が、真にクラシックな「物語」の在り様と根底で通じているからにほかならない。 著者は自らの被害体験について深く考えるきっかけになったデリダの哲学との偶然の出会いと傾倒をめぐって「一方的で学問的ではない、空想的なものである」と記している。わたしは「哲学研究」にかんしてまったくの門外漢であり、「私」が「当事者」であるのと同じ意味で「当事者」であるわけでもないが、「私」が文字通り腸を引き千切られる痛みとともに反芻したであろうデリダの思考――償いをあてに出来るがゆえに赦しうるものを赦すことは断じて〈赦し〉ではない。〈赦し〉とは、償いなど不可能であるがゆえに赦しえないものを赦すことである――と正しく「空想的」な関係を取り結びたいと、はげしく願わずにはいられない。たとえば「空想的」に被害を加害に置き換えて考えてみる。わたしには償うことが出来ず、したがってわたしは赦されえないが、にもかかわらず/だからこそ赦されなければならないのだとすれば、いったいそれはどういうことなのだろう。わたしが受け取らなければならない〈赦し〉とはなんだろう。そのときわたしはどんな姿勢で「私」の「物語」を聴き取り、「私」に向かってどんな「夢」を「物語」り返せばよいのだろう。「私」は末尾でもデリダを引用した上でこう述べている。「証言が本当の本当に真実であるかどうかは、証言者だけが知っている。それは、隠していた秘密を暴露したときに、新たに生まれる秘密である」。暴力にたいする防衛反応=「解離」という精神障害によって生じた「秘密」は、証言されることで重層化され、新たに摑み直され、生き直されるのだ。わたしは『罪と罰』の登場人物ソーニャに小林秀雄が付した註釈を思い出す。「公開しても生きている秘密、自分にそんなものを支えて立つ力はない」。ならば暴力の加害者はどうか。加害者にも「秘密」があるのだろうか。その「秘密」もまた証言において新たな生を生き始めるのだろうか。そうであるはずだ。では、その「秘密」と被害者の「秘密」はどこかで触れ合うだろうか。わからない。だが真剣に考えるべき事柄であることは確かだ。(かわぐち・よしみ=文芸批評)★こまつばら・おりか=日本学術振興会特別研究員PD(関西大学)。著書に『性暴力と修復的司法』(ジェンダー法学会奨励賞)。