――またはその豊かさについて――青木耕平 / 東京都立大学ほか非常勤講師・アメリカ現代文学週刊読書人2021年7月16日号ヘヴィ著 者:キエセ・レイモン出版社:里山社ISBN13:978-4-907497-14-9「母さん、あなたに向けて書くつもりはなかった。ぼくは噓を書きたかった。正直に書きたくはなかった……ぼくらのことは書きたくなかった」。本書はこの告白とともに始まり、三百頁にわたる語りを経て、以下の文章によって閉じられる──「ぼくは噓を書きたかった。母さんは噓を読みたかった。でもぼくはこれを書いた……ぼくはただ、ぼくらが何を経験してどこで歪んだのか、ぼくらに知らせようとしているだけなんだ」。 サブタイトルに「あるアメリカ人の回想録」とあるように、『ヘヴィ』は著者キエセ・レイモンの自伝的回想録で、その語りの宛先は母親だ。レイモンは大学で英文学と創作を教える作家であり、レイモンの母もまた博士号を所有する大学教授だ。はたから見れば、高い学歴と職業を手にした社会的成功者に思えるが、しかし、アメリカ深南部(デイープ・サウス)ミシシッピ州ジャクソンで生まれ育った黒人母子にとって、人生はそう軽いものではない。 作中六度も繰り返される「ぼくは噓を書きたかった」という告白に、噓偽りはおそらくない。レイモンは、希望を持って終わる物語、人生を豊かにする知恵に満ちた教訓、「目を瞠るような文学作品」を、自分の人生の記録として書くことを幼少期から夢見ていた。しかし彼は、自分たちの経験と歪みを、母に向かって「正直に」書いた。そうすることしか出来なかった。 若きシングルマザーは、交際相手から手酷く扱われ、幼い息子がいるその家で泣きながら性行為を強要される。そんな母の泣き声とベッドの軋む音をかき消そうと、父不在の貧しく小さな家で、幼いレイモンは冷蔵庫のピーナッツバターを一瓶まるごと舐め尽くし、ぶくぶくと太り肥えていく。教授職を得てもなお母親はギャンブル依存から抜け出せず、借金で生活は苦しく、学業を怠る息子の肥満体をベルトで激しく鞭打つ──。 タイトルである『ヘヴィ』とは、まずもってレイモン母子の人生の重さであるが、それと同時に作中で変わり続けるレイモンの身体の重さも意味している。中盤、一三三キロの超重量級(スーパーヘヴイー)から一転、レイモンは運動と食事制限によってアスリートのような身体を手に入れる。しかし、彼はそこで止めることができず、過度な節制を続け健康を害してしまう。「白人の倍、優秀だったら、白人の半分は手に入れられる。それ以下なら地獄行きよ」、そう幼少期から母に繰り返し諭されてきたレイモンの身体と人生は、バランスをうまく取ることが出来ない。 一九七四年生まれの著者の回想録である本書は、個人によるアメリカ現代史の記述でもある。八〇年代の保守的なレーガン政権下においてアメリカ南部の暮らしはどのようなものであったか、九二年のロサンゼルス暴動が黒人ティーンエイジャーにどのような衝撃を与えたのか、二〇〇一年の九一一同時多発テロ勃発時そしてイラク戦争へと向かう愛国心の高まりをどのようにやり過ごしたのか。ハリケーン・カトリーナそしてオバマ大統領就任によって広まった新たな希望そして新たなプレッシャーを記述し、二〇一〇年代、白人警官に不当に奪われる黒人たちの生命が語られる。本書が二〇一八年に刊行された意義は、個人史と米国史とが交叉するこの点にこそある。「噓」を書く選択肢など、最初から彼に与えられていなかった。 ヒップホップ、TVドラマ、ゲーム、映画、そして文学作品と、八〇年代以降の文化作品の固有名がページの上に夥しく氾濫する本書は、一人の若者がそれをどのように需要したかの文化史としても興味深い。レイモンは決して地域の黒人コミュニティを否定しているわけではない。白いアメリカをただ糾弾するのでもない。その重さと残酷さを知りつつも、その豊かさと深さをも同時に彼は記述する。レイモンは小説作品を、虚構を、噓を愛した。魅力的な「自伝的フィクション」を書くことを心より望んでいた。しかし彼の人生は母親に向けて書かれ、我ら読者にノンフィクション作品として届けられた。フィクションに託すことのできない重さというものがあるのだと、その重さと共に生きる男が教えてくれる。(山田文訳)(あおき・こうへい=東京都立大学ほか非常勤講師・アメリカ現代文学)★キエセ・レイモン=作家・ミシシッピ大学英文学部ヒューバート・H・マカレグザンダー記念教授。一九七四年生。