――自在に想像を駆使してみせる著者――杉田敦 / 美術批評家・女子美術大学教授・芸術表象週刊読書人2020年5月22日号(3340号)ホテル・アルカディア著 者:石川宗生出版社:集英社ISBN13:978-4-08-771702-0奥行きが見当もつかないような広がりを見せてくれることもあれば、SFは、まったく異なるもうひとつの方向に対する想像を掻き立ててくれることもある。それは、見たこともないような世界を創り出すまさにそのために、すべての運動を停止して、交渉を遮断し、ある意味で引き篭もってしまっている人物、そうその著者自身への関心だ。作品によって、いやその時々の読み手の事情も関係して、生み出された世界そのものだけに関心が向くこともあれば、どれだけ破天荒な世界を目の前に提示されても、それを紡ぎだした人物の姿ばかりを思い浮かべてしまうということもある。読み手の意識はそれらの極を揺れ動き、どこに落ち着くかによって、読後感は大いに影響されることになる。本書の場合は、かなり後者の側に偏っている。個人のなかに蟄居を運命づけられていることを牢獄と感じ、様々な別の人格、エテロニムを生み出したフェルナンド・ペソアをエピグラフに引いていることや、慎ましさを意味する言葉に由来する名前の女性が、勢い余ってホテルに閉じ篭ってしまうという構造もそれを匂わせている。あるいは、さらに詮索すれば、データを頼りに遥かな天体を遠望してはみるものの、彼の地での経験は決して得られることのない、著者の大学時代の専攻や、テキストを手掛かりに綴り手の本意を深慮しはするものの、手にしたものの真贋はこれまた不確かな、翻訳者という経歴もそうした理解の背中を押す。描かれる世界が奔放になればなるほど、経験することから隔てられている著者こそが、姿見せぬ主人公、プルデンシアなのではないかと思えてくる。はるか彼方を自在に飛び回る想像性はもはや感じられることはなく、息も詰まるような閉空間、そうつまり本人の内部だけで作用する秘密の力学に操られた奇妙な現象を見せられているような感覚に囚われるのだ。ただし、外延的な広がりを感じさせないからといって、SFとして魅力がないというわけではない。数々のSF映画において、宇宙の果てが自身の内部に回帰することは、繰り返し幻視されてきたのではなかったか。また、宇宙論にも、宇宙という存在が、限りなく限定された条件に生きる人間という存在と結びついていると考える人間原理がある。「わた師」が垣間見せようとするのは、そうした巨視的世界の微視的世界への密通、遠くに行き過ぎて知らぬ間に自分自身に戻ってしまうという構造だろう。著者自身を巻き込んだこうした読みは禁じ手っぽくもあるが、主客融合の混濁を描いてみせた〈手〉の著者ならばおそらく許してくれるだろう。いやそもそも、これだけ自在に想像を駆使してみせる著者が、なんともベタな構造で、これまたベタなSF的語り口をしていることを怪しめば、むしろそうした理解こそを意図していると考えた方がよいのかもしれない。引きこもる著者に対して、気を引こうとして物語を紡ぎ出しているのは著者自身なのだ。もっともそんな彼にしても、よもや世界全体が引き篭もり、自身を鼓舞する言葉を探すような事態に陥ろうとは、つゆにも思わなかったはずではあるが。(すぎた・あつし=美術批評家・女子美術大学教授・芸術表象) ★いしかわ・むねお=作家・翻訳家。著書に『半分世界』など。一九八四年生。