――至高の読書体験を与えてくれる学術書――宮下規久朗 / 神戸大学教授・美術史週刊読書人2020年4月3日号(3334号)ヨーロッパ中世の想像界著 者:池上俊一出版社:名古屋大学出版会ISBN13:978-4-8158-0979-9ヨーロッパ中世の想像界を総合的に論じた本書は、わが国の西洋中世史研究を牽引してきた池上俊一氏の長年の研究の集大成である。本文だけで八百頁近い大著だが、一旦読み始めるや、めくるめく絢爛豪華な世界周遊に引き込まれ、たえずあふれ出る珍奇な事象に幻惑され、しばらくその「心地よき場」から離れることができない。高度な学術書でありながら、至高の読書体験を与えてくれる。想像界(イマジネール)とは、あらゆる知的・感性的な活動の総体にして、思想・伝承・文学・美術などに表れた心性のこと。政治経済史や思想史、文学史や美術史のすべてに関わり、いずれのジャンルをも貫いている。ヨーロッパ中世は、西洋の揺籃期であって、ルネサンス以降の近代的な合理的・科学的な視点が生まれる以前の、多種多様な思想や文化が併存する混沌とした世界であった。しかし、キリスト教の価値観が支配し、聖職者や知識人はラテン語を共通語としていたという点でひとまとまりの文化圏でもあった。とはいえ、それは古代ローマ帝国崩壊後の五世紀からルネサンスの始まる十五世紀までの千年間にも及び、とうてい一筋縄ではとらえられない。著者はかつて上梓した『ロマネスク世界論』において、盛期中世の心性史を捉えるのに成功したが、本書はさらに広い期間にわたる中世の心的世界の全体像を描き出そうとしている。まず序章で、本書の方法論や研究史を概観し、中世人をとらえた「驚異」の歴史と役割を検討する。第一部「植物・動物・人間」で、薬草や動物、人体や魂について博物学的に概観し、中世における自然観や人体観を浮き彫りにする。中世は神や人間中心であったのではなく、様々な動植物と共存し、その豊かなイメージのうちにあった。とくに鸚鵡と梟のユーモラスな立場に焦点が当てられており、興味をそそられる。第二部「四大から宇宙へ」では、地・水・火・風の四大に沿ってそれぞれの意味や風俗が考察される。水では、水浴と温泉の習俗がつぶさに紹介され、中世の温泉にまつわる豊富な例示によって、中世人が風呂嫌いであったという先入観が覆される。さらに宇宙と世界の表象をめぐって、中世の宇宙観と世界観の変遷をたどっている。第三部「聖と魔」では、中世を支配していたキリスト教の聖性と、それを脅かした悪魔的な魔性を対比する。天使のイメージの変遷に続き、心臓が特権的となって聖心崇拝が成立する事情を説く。また、ローマの大詩人ウェルギリウスが魔術師として広く伝承され、ローマの女神やゲルマンの妖精が魔女の原型となったこと、そして農民の素朴なダンスがいつしか魔女の集会(サバト)を代表する身振りになった過程を検討することによって、初期中世では教会側も迷妄として大目に見ていた魔女信仰が、社会や教会が制度化するにつれ徐々に捏造と実体化が進んだとする。魔女や魔術に関しては、カルロ・ギンズブルグの一連の著作によって親しまれてきたが、ここではさらに新鮮な視点を与えてくれる。第四部「仲間と他者、現世と異界」では、ヨーロッパ中世を覆っていた身分制を支えた権力や権威のイメージ、内なる者どうしの友愛や宣誓の身振りや印を検討する。一方、西洋の内なる他者としてユダヤ人が、迫害の強化とともにいかなるイメージを付与されていったのかをたどる。この問題については日本でもレオン・ポリアコフの『反ユダヤ主義の歴史』など数多の文献で読めるが、反ユダヤのイメージ形成というテーマに沿って簡潔に整理してくれた。次に、弱者であった女性の労働の象徴であった糸巻き棒をめぐるイメージと意味を考察する。フェミニズム的な観点による中世史には、キャロライン・ウォーカー・バイナムらによる優れた研究の蓄積があるが、糸巻き棒というアトリビュートに絞った点に著者ならではのユニークな視点が光っている。そして、天国と地獄の間にある「地上の楽園」と煉獄について、その形成と変容の過程を考察する。煉獄といえば、著者の師事したアナール派の泰斗ジャック・ルゴフの『煉獄の誕生』がすぐに想起されるが、この名著への近年の批判を検討し、ルゴフの説を擁護しつつ刷新している。「地上の楽園」についても、ジャン・ドリュモーの大著『楽園の歴史』の邦訳があるが、煉獄とともに論じることで、中世の他界観について見通しのよい展望を与えてくれた。最後に、西洋中世の想像界の構造とその変容が六つの視点でまとめられている。全四部はそれぞれ五節に分けられ、各節には「むすび」がつく。多岐にわたる広大無辺な対象を扱いながら、この理路整然たる構成によって、きわめて論理的で強い説得力が与えられている。美術史家エミール・マールは、ゴシックの大聖堂はそれ自体がひとつの百科全書だと述べたが、この浩瀚な著作は、堅固に構築され、外観も内部も細工が凝らされた壮麗な大聖堂のようだ。わが国の西洋史研究の到達点といってよい記念碑的な労作である。(みやした・きくろう=神戸大学教授・美術史)★いけがみ・しゅんいち=東京大学総合文化研究科教授・西洋史。著書に『中世幻想世界への招待』『公共善の彼方に』『フィレンツェ』『魔女と聖女』など。一九五六年生。