浅見洋 / 石川県西田幾多郎記念哲学館館長・石川県立看護大学特任教授・哲学週刊読書人2020年6月19日号(3344号)善とは何か 西田幾多郎『善の研究』講義著 者:大熊玄出版社:新泉社ISBN13:978-4-7877-2005-4本年は西田幾多郎生誕一五〇年であり、記念出版が相次いでいる。把握しているだけでも三月二五日~四月一〇日の間に、西田哲学をテーマにした新刊が四冊出た。その内、入門書と銘打った、大熊玄著『善とは何か 西田幾多郎『善の研究』講義』と黒崎宏編・解説『「西田哲学」演習ハイデガー『存在と時間』を横に見ながら』の二冊を並べて評することにする。 前著は、西田前期の主著『善の研究』の第三編「善」を、「哲学を知らない人でも理解できる」ことを目標に、講義形式で解説することを試みた一冊である。著者の大熊氏は石川県西田幾多郎記念哲学館(かほく市)で学芸員として、現在は立教大学の社会人向け大学院の教員として「善の研究」を一〇年以上も講読、講義し続けてこられた。そうした氏の経験の蓄積が、難解をもって知られる日本最初の哲学書『善の研究』の平易な「解説のまじった現代口語訳」を可能にした。 『善の研究』第三編は十三章にわたるが、その段落ごと、長い段落はさらに幾つかに分けて、丁寧に解説されている。例えば、第一章「行為 上」は《人間の行為を、心理学的に、意識現象(とくに意志)として考えてみる》と内容が推測できるように、解説を加えて口語訳されている。さらに、その第二段落の最初の二行「行為というのは、外面から見れば肉体の運動であるが、単に水が流れる石が落つるという様な物体的運動とは異なって居る。一種の意識を具(そな)えた目的のある運動である」は、《「善」について考える以上、まずは行為について考えなければならない、これが西田の大前提です。ふつう「行為」といえば、外から見れば、肉体のただの動き(運動)に見えます、しかし、人間の「行為」はたんなる動き(運動)とは違います。たとえば、たんに水が流れたり、石が落ちたりするような物体の動きを「行為」とは言いません。ここでは、たんなる動き(運動)と「行為」を区別しておきます。……ここでは、話が行き違って混乱しないように、人の「行為」のことを、ただの動き(運動)ではなく、「何らかの意識をそなえた、目的のある運動」と決めておこう(定義しておこう)というわけです》と現代口語訳されている。実に、平易である。こうした講義を解らないという学生がいたら、彼には哲学の単位修得をあきらめてもらうしかない、それほどの解りやすさである。 大熊氏は、これまで中学生や一般向けに鈴木大拙の言葉の解説書やアンソロジーを刊行するなど、西田や大拙の言葉を現代人に平易に伝えようと努めて来られた語りべのような哲学研究者、教育者である。平易が平板に見える場合が無いわけではないが、本書は幾つかある『善の研究』の解説書の中でも、最も初学者である読者、聴講者に寄り添って書かれた最良の入門書と言ってよい。 比して、後著はウィトゲンシュタイン研究を中心に、哲学研究に多くの業績を残してこられた大御所・黒崎宏氏の西田哲学演習である。そのため、読者には単なる「聴講者」ではなく、演習の参加者として「哲学する主体」であることが求められている。 前半部では、一九三一年から三七年に発表された西田哲学完成期の一二の論文から形而上学と認識論に関する主要な文章を選び、それら各々に「解説付き抄訳」を付し、西田哲学の一つの解釈モデルを提示している。形而上学の完成形が見いだされる論文としては『哲学の根本問題・続編』(一九三四年)の第一論文「現実の世界の論理構造」、第二論文「弁証的一般者としての世界」、認識論が確立された論文として「行為的直観」(一九三八年)が取り上げられている。前半部の最後に黒崎氏は自己の言葉を( )にはさみながら、以下のような西田の文書を引用している。 《弁証法的一般者の世界が個性的に自己自身を構成するという事は、我々は形成するものとして(生物学的)種から生まれながら、何処までも個(個物)として自己自身を限定する(という)事であり、我々の行為というのが、歴史的・社会的である(という事である)。……歴史的・社会的個(個物)としての我々が(それと矛盾対立する)物の世界を構成する(という事)である。(実は、物の世界についての)我々の知識は、行為的直観に基づき、制作的(なの)である。(模写ではなく、一種の創作なのである。そして)歴史的身体的運動がその基礎となるのである。……而して、歴史的生命の具体的内容として、哲学的知識というものが成立するのである。》この引用文に集約されている(と評者は考える)西田哲学の本質をその後の「註」で見事に解説している。丁寧に本書を読まれる読者は、西田の文章とその註釈を辿りながら、いつの間にか明解な西田哲学解釈へと導かれるであろう。 前半部だけならば、本書は西田哲学の一つの解釈モデルをアンソロジー形式で紹介した解説書にすぎない。しかし、編者が「一層の深掘り」と記す二つの結論(おわりに―私の「西田哲学」観、続・おわりに―私の「西田哲学」観)と二つの補論(三木清『哲学入門』、廣松渉『世界の共同主観的存在構造』)では、前半部の解説に基づいて、西田哲学理解がより深く、比較思想的により鮮明に描き出されている。また、副題「ハイデガーの『存在と時間』を横に見ながら」が示しているように、西田とハイデッガーの共通点に着目し、両哲学を対比しながら考究されている。そのように、本書は西田哲学の解説書であるにとどまらない、優れた研究書でもある。 黒崎氏は一九二八年生まれであるから、既に九〇歳を過ぎておられる。その衰えを知らない筆致と哲学研究の姿勢には畏敬の念を禁じ得ない。若き哲学研究者にとって西田哲学への入門書である本書は、社会の一線を退いた哲学徒たちをもう一度哲学的思惟へと回帰させるかもしれない。 二つの著作は西田哲学に関心をもつ、異なった読者層を想定しており、前者は西田前期の「倫理学」、後者は完成期の「存在論」「認識論」を解説するテキストである。しかし、両著者はいわゆる西田哲学を『善の研究』の展開として捉え、「西田哲学は、今日世界に通用する哲学として、なお依然として新しい」という共通認識をもっておられる。とすれば、この二つの著作は連続ないしは並行して読むと、さらに理解が深まるであろう。 「西田幾多郎リヴァイバルがおこっている今日、西田哲学の全貌を知りたいと思う読者は多い」として生誕一五〇年を期した両書の刊行は、期せずしてコロナウィルス感染症拡大という非常時のただ中でなされた。哲学書は非常時対応には一見迂遠(うえん)である。しかし、西田は「今日は非常時だと言われる。この非常時に当って、私の言う所のごときは一腐儒(ふじゅ)の言に過ぎないと考えられるかも知れない。しかしいたずらに力むばかりが能事(のうじ)でない。非常時なればなるほど、われわれは一面において落ちついて深く遠く考えねばならぬと思う。迂遠と思われる所にかえって真に顧慮(こりょ)すべきものがあるかも知れない」と記している。だとすれば、今、われわれの能事(なすべきこと)の一つは、腐儒(役に立たない学者)と見なされがちな哲学者の書を読み直すことなのかもしれない。(あさみ・ひろし=石川県西田幾多郎記念哲学館館長・石川県立看護大学特任教授・哲学)★おおくま・げん=立教大学大学院准教授・東洋思想・日本哲学(西田幾多郎・鈴木大拙)。金沢大学大学院博士後期課程満期退学。著書に『鈴木大拙の言葉 世界人としての日本人』など。一九七二年生。