野村喜和夫 / 詩人週刊読書人2018年1月26日号小林秀雄 美しい花著 者:若松英輔出版社:文藝春秋ISBN13:978-4-16-390687-4タイトルの「美しい花」は、いうまでもなく、小林秀雄の「当麻」に読まれる美をめぐる有名なフレーズ、「美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない」をふまえている。 さて、600ページを越える大冊。だが、不思議に読後の疲れはない。それは、結論からさきに述べてしまうことになるけれど、全章を広い意味での詩が貫いていて、私には悦ばしいかぎりだからである。しかしなぜ、小林秀雄と詩? ふつう小林秀雄を論じるとなると、この近代批評の泰斗を批判的に乗り越えようとするか、あるいは乗り越えがたい対象としてオマージュを捧げることに終始するか、どちらかであろう。ところが若松英輔の場合は、後者への傾きがないわけではないとはいえ、別の道をとる、しかも特異な、ほとんど前例のない道を。 著者自身は、やや控え目に本書を評伝と規定しているが、はたしてそう言い切っていいものかどうか。むしろ、唐突ながら、たとえて言うならユダヤ教におけるタルムードのようなものではないだろうか。小林秀雄のテクストを本文とし、それに寄り添いながら、その解釈を果てしもなくつづけてゆく行為。頻繁に繰り返される「(小林は)……というのだろう」という独特の推量の言い回しがその徴だ。本文はそこでなんらかの否定精神によって批判されるかわりに、より普遍的な地平のほうへと肯定的確信的に読み解かれる。 そう、タルムード的な解釈には知のほかに信が伴わなければならない。信は共振の強度と言い換えてもよい。いったい若松は、小林の言説のどこにそのような共振の強度をおぼえるのか。ひとことで言うなら、これもユニークといえるかもしれないが、「超越」への、「神秘」や「謎」への、あるいはプラトン的な意味での「実在」へのまなざしに、である。それはほとんど、『神秘哲学』や『意識と本質』の著者井筒俊彦や、知る人ぞ知る小林秀雄論をもつ批評家越知保夫の影響を受けたところの、若松英輔自身の哲学でもあるのだ。 そしてここからが核心部分だが、「超越」「神秘」「謎」「実在」、それらは若松にとって広義の詩の言い換えにほかならない。彼は以前、『叡智の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』という本を書き、井筒俊彦がカタカナ表記の「コトバ」で超記号的な言語活動の根源を意味させようとしたことを指摘したが、したがって詩もまたその「コトバ」のうちに包摂されるであろう。本書で若松は、井筒にならって、小林秀雄における言語を越えた「コトバ」=詩のあらわれをより精密かつ包括的に探求しているのである。 こうして、解釈のうえに哲学がひろがり、さらに哲学と分ちがたく、詩が浮かび上がってくる。もうひとつ、本書の特徴は、小林秀雄のとくに前半生をひとつの多方通交路として描いていることだ。「同質の」という、これまた頻繁に出てくる形容語によって、さまざまな他者の言説が知と信のネットワークのうちに結ばれるのである。ボードレール、ランボー、ヴァレリー、ドストエフスキーはもとより、同時代人の、およそ異質な資質の持ち主である中原中也や論敵であった中野重治にまで、何かしら「同質の」心性の在処が探られてゆく。このようなページを示されると、あたかも昭和前期、小林秀雄を中心に、広範な共振の共同体ともいうべきものが潜在していたかのようだ。 そして最後は、小林が偏愛した西行と実朝、つまり文字通りの詩の問題へと収束してゆく。若松は書く、「ベルクソン論で小林が「誤解を恐れずに言うなら、哲学者は詩人たり得るか、という問題であった」と書いたのは先にみた。小林が「西行」、「実朝」において論究しようとしているのは、「詩人は哲学者たり得るか」という問題だった。」 詩と哲学。実は私も、立ち位置や関心領域のちがいは多少あるとはいえ、詩人として長いあいだ詩と哲学の関係を考えてきた。若松の真摯かつ情熱的な探求の行為に、「同質」ならぬ「同臭」を嗅ぎつけたような気がして、いま、よろこびを禁じ得ない。(のむら・きわお=詩人)★わかまつ・えいすけ=批評家。慶應大卒。著書に「魂にふれる」「吉満義彦 詩と天使の形而上学」「涙のしずくに洗われて咲きいづるもの」「霊性の哲学」「悲しみの秘儀」「イエス伝」「詩集 見えない涙」など。一九六八年生。