――深く重い問いが読者自らの思考を促す――本橋哲也 / 東京経済大学教員・カルチュラル・スタディーズ週刊読書人2020年4月24日号(3337号)野蛮の言説 差別と排除の精神史著 者:中村隆之出版社:春陽堂書店ISBN13:978-4-394-19501-6資本主義の発展に必須であった「原始的蓄積」の源をヨーロッパによる新大陸の植民地化に見たマルクスは、アメリカ先住民の血とアフリカ奴隷の汗によって、今でも継続する「西洋ウェスト」による「その他レスト」の支配と搾取が始まったと喝破した。そのような経済的政治的な差別構造を支えてきたのが、言語によって表象された集合的な認識や観念、イメージの束である〈言説〉である。自己が〈文明〉であり他者が〈野蛮〉であるという価値観も、個々人が帰属する社会の言語的産物なので、客観的な「事実」として〈野蛮〉が存在するわけではない。それはちょうど「出来事」が確かに存在するとしても、事実とは特定の文脈や力関係(男か女か、金持ちか貧乏人か、どんな出自か、どのような文化圏に属しているか等々)のなかで言説によって「事実化」されるものだから、純粋客観的で唯一の正しい事実などというものは存在しないのと同様だ。ふたたびマルクスの表現を借りれば、言語的存在である人間は、社会に生まれ落ちたときから自己と他者との距離を言説によって測る「命がけの飛躍」を余儀なくされているのである。 本書は、このような言説動物としての人間の歴史上、繰り返されてきた虐殺や支配や戦争を正当化してきた、文字通り「命がけ」の歴史を(象徴的には一四九二年のコロンブスによる「新大陸発見」に始まる)近代植民地主義以降の〈野蛮〉の言説の生成によって辿る。何より特筆に価するのが、その完璧な構成だ。各章が同じ長さの講義形式で、西洋における〈野蛮〉言説の源から、啓蒙と科学の時代を経て、植民地主義の最盛期とホロコースト、そして現代日本の差別言説まで、およそこの主題に関して踏まえておくべき内容が網羅されて、簡潔にして流麗な筆致で語られる。各講では、まず鍵となる用語の語源的な検討と定義がなされ、平易な言葉で述べられながら、決して論旨を曖昧にしない堅実な説得力に満ちた議論が用例と文書の引用をもって展開され、最後にその講義で使われた参考文献の解説がつく――臨場感と緊張にあふれた講義の見本というだけでなく、人文学の基本に忠実な問いと仮説と論証が「です、ます」調の親しみやすい口調で進められるので、読者は引きこまれながらも、常に自らの思考や立ち位置に意識的にならざるを得ない。イントロダクションに続く全一五回の講義に参加した読者/聴衆は、知識と意識の階梯を何段も上がったことに大きな満足を覚えて、更なる探求へと向かう勇気を得ることだろう。 何より感嘆するのは、講義とは言いながらも一方的な教説の伝授ではなく、読者自らの思考を促す姿勢が一貫していることだ。たとえば、「西洋の良心」とも言うべきアーレントの帝国主義に関する考察と、セゼールの植民地主義への洞察とが併記されて、次のように解説される――(アーレントが言及する)「ヨーロッパ大陸の野蛮化」、それはセゼールにとっては「ヨーロッパのアフリカ化」などではいささかもなく、ヨーロッパ大陸それ自体が植民地主義をつうじて招いてきた「野蛮化なのです」(一九八頁)。アーレントでさえ免れることの出来なかったヨーロッパ的(そこには当然、近代以降の日本も含まれる)な文明中心主義が産む〈野蛮の言説〉から、私たちはどれだけ自由でありえているのかという、この問いは深く重い。まさに「学ぶ」ことが「真似ぶ」ことであり、「手伝う」とは「手を伝って受け取る」ことである、という教え育つことへの励ましが本書の各頁には詰まっているのだ。 この小稿を執筆している現在、世界は「新型コロナウィルス感染症」の影響で、「人類対コロナ」などと、まるで世界全体が共通の運命に見舞われているかのような状況に見えるが、このような災害時にこそ、文化的な力関係によって差異化されて構築される〈野蛮〉の言説が流布することを忘れてはならない。マルクスの言った「命がけの飛躍」とは、災害を奇禍として支配と搾取の拡張をめざす資本主義の根本原理なのだから。(もとはし・てつや=東京経済大学教員・カルチュラル・スタディーズ) ★なかむら・たかゆき=早稲田大学准教授・カリブ海フランス語文学研究。東京外国語大学大学院後期博士課程修了。著書に『エドゥアール・グリッサン』『カリブ‐世界論 植民地主義に抗う複数の場所と歴史』など。訳書にグリッサン『フォークナー、ミシシッピ』『痕跡』など。一九七五年生。