――賢治研究の次なる一歩はどこに向かうか――構大樹 / 清泉女学院中学高等学校教諭・文学週刊読書人2021年4月2日号宮沢賢治論 心象の大地へ著 者:岡村民夫出版社:七月社ISBN13:978-4-909544-13-1 宮沢賢治が考察されるとき、しばしばなぜこれほどまでに親しまれ、テクストも読まれるのかという問いから始められる。この常套句的な問いは、おそらく賢治が日本の近代文学(史)にとっていまだイレギュラーとして見なされていることの裏返しだろう。つまり賢治は地学の専門家、農業指導者、採石工場の技師といった肩書きからうかがい知れるように実践家の面がはっきりあるし、遺されたテクストはお世辞にも読みやすいとは言いづらい。生前に発表されたテクストも多くない。ところが、彼は日本の近代文学(者)のなかで知名度が抜群だ。賢治と彼のテクストのあり様と受容の実態の間には、どうにもうまくつなげられない溝がある。だからこそ気になるし、問いとしてせり上がってくる。本書の著者はこうした賢治に関する気になるところに対して、新鮮でしかも明晰な見解を加えている。 著者の賢治テクストの捉え方は、「不分明さ・不可思議さ・不整合・断片性・多義性・決定不能性」——要するにわかりにくさを認めつつ、それをテクストが外の世界とつながり、さらには変革しようする力の過剰性として肯定的に意味づけるというものである。賢治は自室にこもって黙々と湧き上がるイメージを書き留めていたわけではなく、またテクストも観念的で内省に閉じこもろうとする性質のものではない。むしろその逆で、賢治は「大地に潜んでいるいろいろな隠れた力を取り出して活用したり、それらの力を新たに組み合わせたりすることで世の中を望ましい方向に持っていこうとする企て」をあちこちで実践し、その一環として執筆行為もあった。彼はいわば現実を総合的にデザインし直そうとする「設計者」としてあったのだ。これが本書を貫く著者の視線と言える。 本書の構成は、そうした「設計者」賢治が解き明かされていくプロセスとなっている。第Ⅰ・Ⅱ部は賢治の想像力が起動し、やがて「心象」として結ばれることになるきっかけ=因子が何であったのかが追究される。そこから浮かび上がるのは、賢治テクストの他者や現実世界を巻き込んでいこうとする性質である。第Ⅲ部はそうした現実への志向が引き続き確認されつつ、今度はそれが因子となってテクストの享受へと発展していった可能性が示唆される。そして第Ⅳ・Ⅴ部では賢治の実践と執筆行為との連動性が、彼の花壇設計と重ねられることで論証されていく。 著者はこれまでの賢治研究の死角に鋭く切り込み、緻密な考察を基本としながら、ときにダイナミックに論を展開させる。また法華経、ベルグソン、食、贈与、擬人法、モダニティといった賢治をめぐる論点が次々に読み直されていく様は、爽快の一言に尽きる。本書におさめられた緒論は作品論の最先端としても、今後の賢治研究のモデルとなり、ゆえにスプリングボードとなっていくことが予感される。 ただし少しだけ欲を言えば、賢治テクストにおける現実世界を巻き込んで構造化しようとする性質の解明はたいへんスリリングだったが、しかし全体の方向性としては、それを踏まえてさらにテクストからその外部を見返したとき、何が浮かび上がってくるのかという議論への展開もあり得たのではなかろうか。「設計者」賢治としての可能性と限界を、より見せてほしかった。本書は学術書であり、その方向は研究から逸脱する危うさを秘めるが、堅実な印象を受ける著者だからこそ、そちらのモデルも打ち出してよかったのではと思えてならない。(かまえ・だいき=清泉女学院中学高等学校教諭・文学)★おかむら・たみお=法政大学国際文化学部教授・表象文化論・場所論。宮沢賢治学会イーハトーブセンター代表理事。著書に『立原道造』など。一九六一年生。