――元駐米大使が日米同盟と国防を語る――伊高浩昭 / ジャーナリスト週刊読書人2021年10月29日号日米の絆 元駐米大使 加藤良三回顧録著 者:加藤良三(著)/三好範英(編)出版社:吉田書店ISBN13:978-4-905497-95-0 この出版社の聞き書きシリーズに属す本書の主人公、加藤良三(80)は、評者と同じく敗戦後の焼け野原の日本を知る世代だが、本書での発言を読むかぎり、何事をも積極的に語る人物、ないし、どんなことにも意見を持つ一言居士と見受けられる。会議などで沈黙を決め込み、誰かが口を開けば巣を張る蜘蛛よろしく待ってましたとばかり、発言者を餌食に群をなして論難することが多い日本社会で、この世代としてはそう多くない型だろう。聞き書き者の質問に対し「記憶にない」などと野暮な国会答弁のように返答することもない。発言内容は別として、活発に発言する点では元大使に好感を持った。米国防省を英語表記通り「国防省」と呼び、日本メディアのように「国防総省」とわざわざ「総」を付けて忖度的かつ事大主義的にして大袈裟な呼び方をしないのもいい。 外務省に1965年入省したキャリア官僚であり、2001年から08年まで駐米大使を務めた。在米大使館書記官、同参事官・公使、駐サンフランシスコ総領事と合わせて米国に4度駐在した知米派だ。「駐米大使は日米同盟の維持・強化に専心すべし」と自覚、一貫してそう努めてきたのだろう。その軌跡が本書だ。興味深い外交舞台裏の様子や逸話がふんだんに出てくる。しかし、ここでは際立つ発言の幾つかを取り上げたい。「国際社会で日本の評価が高い」のは米国と密接に組んでいることに起因し、「日本を怒らせると米国も怒らせてしまうという怖さ」からだろうかと前置きして、「日米あっての日本」と強調する。だが「日本は自立性を高める必要があり、そのためには強い国でなくてはならない」とし、「自衛力と日米同盟下の米軍事力の総和を大きくするには、従来以上に日本の自衛力を強化する必要がある」と力説。「中露朝は核(兵器)を保有しており、朝鮮半島情勢が不安定になれば、日本は核を含む防衛政策を熟考せねばならない」と踏み込む。歯切れの良さに不安を覚える。日本を取り巻く東アジア情勢の切迫感がそのような発想の基にあるのは疑いないが、「広島・長崎の戒め」を忘れてはなるまい。核兵器禁止条約も存在する。加藤は続けて、日本の自助努力に加えて、米国が核と通常戦力で日本を守る意思と能力について日本を納得させることができるかぎり多分、日本の核保有は必要ないと見るも、「非核三原則見直しの話はいずれ出てこざるをえない」と予測する。 また、「対中抑止の観点からは、自衛艦への巡航ミサイル配備や潜水艦の大幅増加は抑止効果が高い」と持論を披露。「タブーが多いのは未開の証拠」と見なし、国が対中抑止でも核でも安保防衛論議に取り組むからにはタブーを排すべきだとし、議論は公開せずに「プロ」の事務レベルから始め、最後に国の決定となるが、ある時点から先は公開議論になる、と明言する。違憲とされてきた「集団的自衛権行使」を含む「安全保障関連法」を安倍政権が2015年に強硬成立させたときも、外務、防衛官僚らの極秘議論から始まったのだろうか。 兵器装備をはじめとする防衛力の規模や防衛予算の拡大を抑える「歯止め」は何かといえば、「民主主義だ」と加藤は断言。「日本人は自分の民主主義にもっと自信を持つべきだ」、「自らの民主主義とそれへの信頼こそが色々おかしなものへの歯止めであり、それ以外の歯止めはない」と語調を強める。ここは論理の展開が短く抽象的であり、「信頼すべき日本の民主主義」状況や実態について丁寧な分析や説明が欲しかった。 その「おかしなもの」が何を指すのか不明だが、9年に及んだ安倍・菅両政権の強権的な「官邸一強体制」下で民主主義は形骸化し、富裕層優遇経済政策で貧富格差が拡大、亀裂が深まった日本社会は荒廃した。憲法53条に基づく野党の臨時国会召集要求は無視された。この問題に関する訴訟で、元最高裁判事は「違憲」とする原告側意見書を法廷に提出している。「モリ・カケ・桜」や学術会議会員任命拒否問題など重大な疑惑も未解明のままだ。言論・表現の自由は窮屈になった。入管の非人道的対応が問題化し、巷には弱者差別やヘイト行為、歴史改竄を含む虚偽情報、誹謗中傷が渦巻いている。政商が跋扈、腐敗は蔓延。あらゆる種類の詐欺が横行している。小さな沖縄には軍事植民地さながら、日米同盟の負担が過分にすぎるほどのしかかっている。心ある有権者は、そんな「自分の民主主義」をやすやすと信頼できるだろうか。 読者としてはむしろ、軍事の歯止めとしての外交の重要性を、元外交官の誇りにかけて縦横に、かつ一層広い視野に立って主張してもらいたかった。日本の「対米従属」問題についても、重い外交責任を負っていた元当局者として、自戒があればそれも込め、守秘義務の許す範囲で、率直な言い分を聴きたかった。この問題は、本書で展開されている辛辣な野党批判よりも重要なことではないだろうか。「愛国者」であることを自認する加藤は、「日本の中に日本国民と呼ばれるのを忌避する正体不明の『市民』と言われる勢力が少なからずいる」と指摘する。「市民」を忌避しているのだろうか。米国を含む世界中で日常的に使われている「市民社会」という用語が表す対象は多くの場合、民主社会の構成基盤をなすものである。市民と国民は言わば相互乗り入れでき、日本人は十分に国民にして市民でありうると思う。一般論だが、「国民か非国民か」、「愛国か反日か」、「テロか反テロか」、「米国につくか中国につくか」など、短絡的で単純極まりない二項対立を提示し選択を迫る「踏み絵強制主義」は、不毛にして危険だ。この種の論法は、今年8月末に終わったアフガニスタン戦争でも破綻した。人間の思考や発想は、一つ事を語るにも多義的にして矛盾に富み、複雑なのだ。 本書の価値に敢えて言及すれば、日米外交の実質的な最重要職位にいた人物が、日米関係や日本の政治と防衛について忌憚なく語っているところにあり、それによって日本現代史の重要な一部である日米関係の断面と、その中心にいた日本人外交官の思想を、日本市民に知らしめたことだろう。自民党政権を代弁しているようにも受け止められるにせよ、この発言集は一次資料であり、これを叩き台にして、あるいは反面教師として、日本人が日米外交や防衛問題を真摯に議論し合意形成を探るようになれば、それは民主体制を立て直し、いびつな対米関係や、のめり込みがちな防衛戦略を正す上で有益であるに違いない。安保関連法、自衛隊展開の「世界化」、米製兵器買付の大盤振る舞い、不平等な在日米軍地位協定、辺野古埋め立て新基地建設など枚挙にいとまのない重要問題を、有権者・払税者が確乎たる信念を持って議論し、状況を好ましい方向に変えてゆくことは容易ではないだろう。だが決して不可能ではない。それを可能にするのが本物の民主主義であろう。(いだか・ひろあき=ジャーナリスト)★かとう・りょうぞう=日米文化教育交流会議委員長。東大卒。外務省アジア局長、駐米大使等を歴任。二〇〇八年退官。一九四一年生。